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企業紹介第197回千葉県有限会社明石水産

環境の変化を嘆くのではなく、
「今、出来ること」を着実にやっていく

3つの卸売市場を抱え日本屈指の水揚げを誇る銚子漁港。明石水産はその第三卸売市場のほど近くに拠点を構えています。戦後まもなくこの地で商売を始め、昭和54年には有限会社となりました。

「自分は二代目ですけど、うちの父親が会社を興したばかりの時はだいぶ苦労をしたみたいですね。聞いた話だけど、東京に魚を売りに行ったり、海水を汲んできて塩を作ったり、イワシが豊漁の時は、窯でイワシを茹でて手作業で圧搾して飼料や魚油をつくったり、色々とやっていたようです。その後、イワシのみりん干し、丸干し、サンマの開きなどの製造を始め、それらが主力になっていきました」(有限会社明石水産 代表取締役 明石隆雄さん、以下「」内同)

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有限会社明石水産 代表取締役 明石 隆雄さん

創業当初、港は現在の第一卸売市場周辺の1か所のみで、明石水産がある第三卸売市場のあたりは今のようには港が整備されていませんでした。当時は工場の一角に住まいがあり、海の目の前の立地であることから、台風が来ると高潮などで家に波がかぶることもあったのだそう。また昔は入札の時間も決まっておらず、船の帰着にあわせて入札が始まり、仕入れた原料をそのまま工場に運んで、すぐに魚の処理をするようなことも多かったのだとか。

「今は入札も朝7時から夕方の17時までと時間が決まっているけど、昔は無制限でしたからね。夜中でも船が着いたら、そこから買い付けが始まるでしょう。私は3人兄弟の長男だったから夜中に起こされて、皆と一緒に作業しましたよ。冬はとにかく寒くてね。まだ子供で身体も小さいから力もないし、大きな箱を何箱も運ぶのも大変だったなぁ。そのまま朝になると学校に行ってね。今の時代からは考えられないね」

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創業当時の明石水産

明石さんは高校卒業後、正式に家業に入り、買い付け、製造、営業など様々な業務を担ってきました。そして、今から30年ほど前に代表取締役として会社を引き継いでからは、工場を拡張したり、設備を増強したりと着実に明石水産を発展させてきました。

「昔は冒険もしましたよ。20年ほど前、食生活が変わって、イワシの丸干し、サンマの開きなどが売れなくなってきた頃に、加工度の高い焼き魚なんかもやってたんです。でも、関東ではまだ珍しく、時代的にちょっと早すぎたみたいで、まとまった量が売れなくて。しかもチルドだから365日毎日納品。従業員を休みの日に働かせるわけにもいかないから、家族でやるしかなくてね。負担が大きすぎたので、この事業からは撤退しました」

原発事故による風評被害で売上、利益率ともに大きく落ち込んだ

2011年3月11日。明石さんは仕入れの帰りに突然大きな揺れに見舞われました。津波警報が出て、自宅のすぐ裏手の海を確認したら、沖合にいた船が15隻ほどの船が一斉に港外に退避していくのが見えたそうです。

「イワシを買った後、岸壁にトラックを停めてちょっと休んでいた時だったんですよ。すごく揺れて船がみんな、わーっと岸壁から離れて逃げ出すし、これは大変だと思って。慌てて従業員を高台に避難させてね。このあたりは津波の被害はそれほど大きくならない土地柄なんだけど、あの時は普段は見えない利根川の底が見えるくらい一気に水が退いて。本当にすさまじかったですね」

地盤が固い土地だったこともあり、幸いなことに建物は屋根の一部が損壊した程度で済み、停電も1日で回復したのだそう。当時、原料をたくさん仕入れていたこともあり、震災後すぐに仕事に取り掛かることができました。ただし、その後の原発事故による風評被害が非常に大きな痛手となりました。

「震災前の原料が残っているうちは良かったんだけど、その後は販売先が忌避感から他社製品への切り替えを推し進めるようになって加工品の売上が一気に落ちました。銚子は千葉県だけど海はつながっているから、やっぱり影響は大きかったです」

また、当時7名ほどいた中国からの技能実習生の半分ほどが帰国してしまい、人手不足にも悩まされました。

「原発の事故が起こってからは、原料も減るし、人手も減るし、値段も買い叩かれちゃって利益が出ないし、2割くらい売上が落ちたかなあ。それに今度は電気代がどんどん値上がりして、さらに利益率が圧迫されてしまってね。2~3年、そんな状態が続いて、その後売上は回復してきたけれど、一回販路を失っちゃうと、元通りにっていうのはなかなか難しいです」

震災後は、国内での原料確保が厳しくなったことで、震災前から扱っていた輸入原料の割合を徐々に増やしていったのだそう。現在、加工品は、ほぼ100%輸入原料を使っています。

「前浜のサバは利益率が良いし、ずっと2本立てでやってたんですけどね。震災のこともあったし、前浜の水揚げ自体も少なくなっているし、当時はノルウェーのサバも安かったから切り替えたんですよ。ノルウェーのサバは脂が乗って美味しいし安定しているしね。今はサンマも台湾産、ホッケも輸入原料です」

機械の導入により、省人化と製品の品質向上がかなった

ここ数年、輸入原料を用いたフィレの受注は増加傾向で、売上拡大の好機を迎えています。しかし昨今の人手不足とそれに伴う増産が難しい状況にありました。そこで令和5年度の販路回復取組支援事業を利用し、中型三枚卸機を導入することを決めました。

「募集してもなかなか人が集まらないこともあって、震災前よりも人手が少ないんですよ。でもこの機械を入れたことで、今の人数でも、多くの製品を生産できるようになりました。毎日フル稼働しています」

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新たに導入した導入した中型三枚卸機

また以前よりも歩留まりが良くなり、利益率だけでなく製品の品質向上にもつながりました。三枚卸しにする際に骨の部分に身が残りにくくなり、フィレに厚み、ボリュームが出るので従来品に比べ製品の見栄えもかなり良くなったのだそう。

もともと品質へのこだわりが強い明石水産ではサイズを厳密に揃え、少しでも傷があるものは使わない等、かなり厳しく原料の選別を行っていますが、更に良い製品を生産できるようになったのです。

「選別は本当に厳しくやっています。そこはやっぱり妥協したらダメ。ちゃんとしたキレイな原料を使って、サイズをビシっと揃えて出すからこそ、お客さんがリピートしてくれているんだろうな、と思っています」

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製品の品質も大幅に向上した

着実な経営で次世代につないでいく

新たな機械の導入により販路の拡大も見えてきましたが、主力であるサバ、ホッケ、サンマの3本柱を中心に手堅い経営を志しています。

「昔は銚子には他県からも船がたくさん来ていて、すごく賑わっていたんです。そんな街の発展とともに明石水産も大きくなってきました。前浜で魚が大漁に揚がれば、銚子の街も活気づくし、従業員にももっとお給料で還元できるんだけどね。今は市場が新しくなって卸売り市場も3つもあるけど、魚が北へ北へと行っちゃって、昔みたいな状況はなかなか望めない。原料も人もだけど、今ある資源をどう活用していくか、それに尽きると思っています」

もっとも明るい話題もあります。それは明石水産の次代を担う存在が、着実に育っていること。今は明石さんの長男、長女、そしてその娘婿が明石水産でともに働いています。

「近いうちにバトンタッチしたいなと思っていて、倅は経営の方を中心に勉強中という感じです。娘の婿は一緒に仕入れに行ったり、現場の方をやってもらっています。2人とも20年くらいやっていて、大分仕事を任せられるようになっているんだけど、まだまだ細かいことを言っちゃうね。自分も親父に、“とにかく整理整頓、そうしたら製品も良くなるしケガもない”ってずっと言われてきました。ポリシーとか経営方針とか大きなことより、そういう細かいことの積み重ねが大事だと思っています」

環境の変化に見舞われながらも、誠実に「目の前のこと」を大事にしていく。そんな姿勢がある限り、明石水産は今後も着実に発展を続けていくのでしょう。

有限会社明石水産

〒288-0001 千葉県銚子市川口町2-6385
自社製品:サンマ、サバ、ホッケなどのフィレ、文化干し ほか

※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。