平潟漁港から目と鼻の先にある大黒屋水産食品。昭和25年頃、祖父の代からこの地で起業し、現在までずっと練り物の製造を行っています。今と違って開業当時は、製品としての冷凍すり身がまだ開発されていない時代であり、魚を1つ1つミンチにして「練り物の原点」のような商品を作っていたのだそう。その後、二代目である父が機械化を進め、昭和44年に法人化し、三代目である現社長の大友さんに事業が継承されました。
「私が実家を継いだのはバブル期が過ぎて、数年が経ったころです。大手がどんどん工場を建てていた頃で、生産能力で競争しても厳しいと思いました。それでこのまま大量生産をして量販店に卸すのではなく、少量を手作りに近い形で作って近隣の人や観光客に直接販売する方向に舵を切りました(大黒屋水産食品株式会社 代表取締役 大友良市さん。以下「 」内同 )」
平潟港はあんこうの産地。震災前は、「あんこう鍋」ブームがあったこともあり、温泉とあんこう鍋を目的にした観光客が数多くこの地を訪れていました。そこで観光客向けに仲間と朝市を立ち上げ、「朝市の名物になれば」とあんこう揚げ、いかげそ揚げなどの新商品を企画したところ、大好評となったのです。
「あんこう鍋ブームだったけれど、あんこう鍋って高いでしょう。お土産に気軽に買って帰れる値段じゃない。だから、手軽にお土産として持って帰ってもらえるようなものを作りたくて、あんこう揚げを始めたんです」
とはいえ、朝市を立上げた当初、大友さんはあんこうを扱った経験はありませんでした。そのため、最初は切り身を購入して白身だけで作り始め、試行錯誤しつつ改良を重ねて行きました。今は見た目や食感にアクセントを与えるため、皮の部分も使っています。やわらかいすり身、キュっとした食感が味わえる白身に加え、ゼラチン質でトロッとした皮を入れることで、より様々な食感が味わえるのだそうです。現在は市場で入札してあんこうを仕入れ、自分で捌くまでになりました。
朝市の試みは好調のまま6~7年続き、軌道に乗ったと思った頃、震災が起こりました。
震災時は、3週間ほど電気と水道が止まり、とても仕事どころではなかったそう。特に多数の資材や、出荷を待つばかりになっていた商品が入っていた冷凍庫が開けられなかったのが痛手だったと言います。震災当日は金曜日だったので、入っている資材も多かったのです。
「消防団に入っていることもあり、当時は何とか持ち出せた資材や商品を避難所で配ったり、津波があった地域に様子を見に行ったりしていました。仕事を再開できたのは4月の中旬くらいだったと思います」
仕事は再開したものの、震災時の自粛ムードで観光客は激減。また「一区画先は福島県」という平潟では、原発不安の影響もあって観光客の足が戻る気配はありませんでした。商売を再開しようにもお客さんがいない状態となり、売り上げは震災前の3分の2にまで落ち込んだそうです。そこからは「待っていても仕方がない」と復興支援関連のイベントに出展を始めましたが、慣れないうちは苦労も多かったのだとか。
「最初は何を持って行ったらいいのかすら、全く分かりませんでした。漠然と手元にあるものを持って行って、“さあ買ってください”と言っても全然売れません。“若い人が多いところではすぐに食べられるものが売れる”、“お酒があるイベントではこんなものが良い”など、買いたくなるストーリーがないとダメだということに気付きました。この場所では“平潟港で獲れたあんこう”というストーリーがあったけれど、外に出たらそれだけでは通じないんだということが学べ、良い経験となりました」
その後、「年配の方が多い時は煮物に使えるもの」「家族が少ない地域では少量のもの」など、出展地域の状況を見ながら、商品ラインナップや数量などの調整を重ねていったのだそうです。そして最終的に思ったのは、「結局、美味しくなければ買ってくれない」ということでした。
「最初は支援の気持ちはありがたかったけれど、今は九州・西日本など、災害で苦しんでいる方々もたくさんいます。美味しいものを作ることが最終的には大事だと思います。安かろう、まずかろうだと2度目はないけれど、美味しければ多少高くても買ってくれるし、“美味しかったから宅配便でまた送って”と言ってくれる人も増えてきました」
父親の代で機械化を大きく進めた大黒屋水産食品ですが、大友さんの代になってから製品の作り方を大きく変えたそう。昔は原料を細切りにするため、サイレントカッターを利用して効率良く作業をしていましたが、「量より質」を貫くため、石うすを使う昔ながらの製法にあえて戻したのです。石うすを使うと、きめが細かくふんわりとした食感が出ますが、原料を茹でてから1つ1つ小さな骨を取り除いたり、食感をつぶさないよう手で混ぜ合わせるなど、細かな作業が必要です。また、その日の気温や原料の状態によっての微調整も必要になります。
大量生産をしていた時代より製品を作るのに時間と手間がかかる上に、少量の小パック包装のニーズも高まり、作業量が増加。「機械化できる部分」での効率化は必須課題となっていました。これらを解決するため、平成30年度の販路回復取組支援事業を利用して、自動計量包装値付機、シュリンクパッカー、そしてお土産用の外装パッケージを新たに導入したのです。
「自動計量包装値付機は、小さいカゴから大きな箱物まで何でも巻けるんです。今までは業務用の箱で出すことが多かったのですが、この機械のおかげで、揚げカマ2枚を小さなカゴに入れたものなど幅広い商品を作れるようになりました。計量機能が付いているのでラップが変に余ったりせず、商品の見栄えが良いことも商品の魅力アップにつながっています」
今までは箱詰めの商品が多く、中の商品が見にくかったそうですが、カゴに入れることが可能になったことで、商品がきちんと見えるようになり、お土産屋さんでも好評のようです。また、それまで1つ1つ手で包装していたため、1時間で60個が生産限度だった商品が、包装の自動化により10分程度で同じ数量が生産できるようになったことも大きいと言います。
シュリンクパッカーも、冷凍対応の商品が作れるようになるなど、商品ラインナップの拡大に貢献しています。また衛生面での安全性も高まるため、今後、大手など衛生基準の厳しい相手先との取引があっても対応可能となりました。
商品ラインナップを増やし、今後は積極的に外に売って出て行くのかと思いきや、大友さんは「平潟港に観光客が戻ってくるのが一番の望み」だそう。それは、一見のお客様ではなく、「地元やリピーターに愛される店・商品でありたい」から。そして、そのためにも「平潟港に行けば、あれが買える」とお客様に指名買いされるような商品を開発したいのだと言います。
「ネットの直販もしていて、お歳暮やふるさと納税での需要も多いです。そういうお客様ももちろんありがたいけれど、地元の人がどこかに行く時にお土産で使ってくれたり、顔なじみのお客様が“釣りに行くなら、大黒屋さんでお土産を買ってきてと頼まれたんだ”とか、“来年も温泉に来た時にまた来るからね”なんて買ってくれるのが一番嬉しいんです」
北茨城市の特産品あんこうを使った製品を販売しているため、市の職員が他の地域に行く際の手土産に使われることも多いのだそうです。また以前は海外製の原料を使うこともあったそうですが、近所の子供達が社会科見学に来た時に「平潟港の魚で作っていると言いたい」と思って以来、なるべく平潟港以外の原料を使わないと言うのも地元に密着した大友さんらしいエピソードと言えるでしょう。
「時代には逆行しているかもしれないけれど、大量生産で大手と同じ土俵にあがっても敵いません。だったら、生産量を落としてでもこだわった納得のいく商品を作りたい。それに、より美味しいものを作った方が、結果的にお客さんにも喜ばれると思うんです」
地元に根差し、商品の良さを本当にわかってくる人と親身につきあっていく。大友さんからも、商品からも感じられる「温かみ」こそが、ファンを育んでいく秘訣なのかもしれません。
大黒屋水産食品株式会社
〒319-1701 茨城県北茨城市平潟町582
代表商品:あんこう揚げ、いかげそ揚げなど魚肉練り製品
※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。