代々、笹蒲鉾など蒲鉾製品を取り扱っている株式会社佐々直。大正5年に名取市閖上(ゆりあげ)の地で創業し、一昨年、100周年を迎えた老舗です。実は、佐々直の蒲鉾作りの歴史は、さらに古くまで溯ります。もともと慶応年間からずっと鮮魚を扱ってきたそうですが、明治23年頃、トイタ網漁法で大量に収穫されたヒラメの保存をするために魚を練って焼くことを始めたのがそのルーツ。当時の製法を復刻して製造している「手のひら蒲鉾」は、会社のシンボルです。
「手のひら蒲鉾という名前は、手で叩いて伸ばして作るから、とか、手のひらのような形だから、など由来は諸説あります。郷土史《閖上風土記》にも”手のひらかま”の名前が残っており、今の笹蒲鉾の前身という説もあるんです」(株式会社佐々直 専務取締役 佐々木市哉氏、以下「 」内同)
手のひら蒲鉾を始め、佐々直の製品のこだわりは「魚本来の旨み」と「味のキレ」。魚本来の旨みを生かすため、原料を吟味し、調味料や水は可能な限り最小限に抑えます。また人工的な調味料を極力使わずに、砂糖、塩、酒、みりんなど、昔からある「根源的な調味料」で味を調えることで、すっきりしたキレの良い味を作り出しているのです。
「食べた時に、先味、中味、後味があるでしょう。ウチでは、特に後味を残さないことを心がけています。もちろん旨みは大事にしてるし、舌に残る味、響きが強い味も満足感はあるかもしれないけれど、もう1枚食べたいとは思ってもらえないと思うのです。後味を残さないことで、毎日でも食べたくなるような、すっきり感、キレ味が出るんです」
実際に佐々直の製品をいただいてみると、口に含んだ時は豊かなまろやかさが広がりますが、食べ終えた時にすっと味が消え、口の中に雑味やトガリが残りません。そのため繊細さや上品さ、非常に軽やかな印象を受けました。
現社長のご子息で、製造と品質管理の責任者である市哉さんが佐々直に戻ってきたのは、今からおよそ10年前。最初は工場で従業員と一緒に働きながら、徐々に品質管理の仕組みを整えてきました。特に市哉さんが入社した頃は、業界の衛生管理が厳しくなってきた時代。それまで「職人のカンや経験」をもとに製造していた時代から、根拠立てて製造工程を整備していく過渡期にありました。
「それまで職人さんの経験に頼って作っていた製品を、“こういう順序、こういう方法で作る”ときちんと決め、その通りに出来ているか記録をつけるようにしました。“こういう理由があるから、この工程が必要だ”と教わった人がきちんと書きとめるようになったことで、学んだことを後から振り返ることもし易くなりました。製造工程を明文化することで、少しずつですが技術の伝承がスムーズになってきていると思います」
これらの仕組みを作る上で、市哉さんの過去の職歴も参考になっているのかもしれません。実は市哉さん、佐々直に入社する前はIT企業や、会計関連の企業で経験を積んだのだそうです。築地など水産関連の会社での修行も考えたそうですが、ITや会計の技術や知識は今後必ず必要になると思い、あえて異業種を選んだのだとか。
「IT系は非常に忙しかったですが、技術面の勉強になりましたし、SEとして様々な企業に出向という形で常駐することで、多様な業種を見られたことも大きな学びになりました。会計は1年ほどの経験ではありますが、会社を動かすためには数字に強くないといけないという気持ちで選びました」
工場全体をまとめる立場にある市哉さんですが、作業の効率化などのお話をする時以上に表情が輝く瞬間があります。それは製品の「味」のお話をされている時。そこには、佐々直に入社した当時のこんな経験が隠されていました。
「最初に工場で働き始めて、自分達が作った商品を食べた時に“こんなに美味しかったのか!”とショックを受けたんです。子供の頃から、ずっと慣れ親しんでいたので、そんなに期待はしていなかったはずなんですが、焼きたてを食べた時に、こんなに美味しいんだと改めて気づいて、本当にびっくりしました」
佐々直で働き始めて、「一番印象に残ったこと」をお聞きした時に教えて頂いたのがこのエピソード。
だからこそ、今でも、伝統の味を守り「ずっと美味しいものを作っていく」という強い気持ちを持ち続けていらっしゃるのでしょう。
震災は市哉さんが佐々直に戻って3~4年が経過した頃に起こりました。地震が来た当初は情報が入らず、なかなか状況がつかめなかったのだとか。従業員の息子さんが、東京からかけてきた電話で「大きな津波が来る」ということを知り、皆を非難させたのだそうです。
当時本社や工場のあった閖上地区は今まで津波被害がなかったこともあり、最初は「半信半疑だった」そうですが、結果的に大きな波によって工場4棟がすべて流され、当日が休日だった方、渋滞に巻き込まれた方など、従業員が5名犠牲となってしまいました。
震災後すぐは、120名ほどいた従業員の安否確認に追われる毎日。その中で、再起のきっかけとなったのは、取引先からの声でした。つきあいのあった百貨店や市場関係者から「また食べたい」「佐々直さん、がんばって」と復活を期待され、震災から2週間を過ぎた頃から、復活に向けてスタートを切りました。震災当時は稼働していなかった仙台市内の工場の建物が幸いにも使える状態で残ったため、拠点を閖上から仙台に移し、営業を再開したのだそうです。
「日数が空けば空くほど、売る場所が奪われてしまうので一刻も早く復興しよう、と社長が大号令をかけました。無事だった工場の床を張り替えて、メーカーさんにお願いして中古の機械をかき集めました。機械が稼働して、製造が再開できたのは震災後1ヶ月経った頃です。機械が変わってしまったので、最初の半年はどうやったら昔の味に戻るのか試行錯誤の連続でした」
最初の工場では、笹蒲鉾のみを製造。震災から1年後に、名取市内に新工場を建て、揚げ蒲鉾の製造もできるようになりました。震災後、一度は解雇した従業員も、徐々に再雇用を果たし、現在は100名弱の従業員が働いています。
これまで復旧を目指し、機器等の整備を続けてきたものの、今の工場は震災前の半分ほどの面積。以前は笹蒲鉾3ライン、揚げ蒲鉾1ライン、はんぺん1ラインが稼働していましたが、現在は笹蒲鉾2ライン、揚げ蒲鉾1ライン。はんぺんは機械がなく、まだ製造できない状況です。そのため売上も、震災前の8割ほどに留まっています。
「大口の注文に対応できないのが、一番の課題です。東京の量販店や共同購入の場合、規模が大きいので、その規模に見合う量が作れないと“取引できません”ということになってしまうんです。とはいえ、無駄に工場を大きくして機械を遊ばせるわけにもいかないし、今後どうしていこうか、常に考えています」
そこで、課題である大規模発注に応える体制を整えるため、販路回復支援事業を利用して導入したのが、サーマルプリンターです。今までは真空包装をした後に、1枚1枚賞味期限の印字をしていましたが、この機械は包装と同時に賞味期限を印字できるため、生産効率は大幅に改善。同時に導入したヒートシール機とあわせ、今まで9人で15時間かかっていた仕事が、6人で6時間で完了するなど、大幅に作業効率が改善しました。それにより、今まで不可能だった大口注文にも対応できる体制が整いました。
また中田バイパス店にVMD(ビジュアルマーチャンダイジング)の手法も取り入れました。LED内蔵のポスターを設置したり、ショーケースをスポットライトで照らしたり、今まで暗かった店内を明るく演出し、視覚的に購買意欲を感じさせるための試みです。
「今は、手のひら蒲鉾を製造している職人さんのアップをポスターにしています。店の中央に構造上どうしても抜けない柱があって店内が暗かったのですが、明るさが加わったことで、お客さんが楽しく買い物できるようになりました」
また、創業100年を迎え、次の100年に向けて、より精緻なブランド化も検討しています。その第一弾として取り組んでいるのがパッケージデザイン。それまでの素朴なものから、伝統は感じさせつつも、洗練された上品なイメージに変更したのです。今年のお中元商戦から、新たなパッケージに徐々に切り替えて行きます。
「メーカーはたくさんあるので、“ウチはこういうカラー”と決めないと他社に埋没してしまいます。そうならないために、きちんとターゲットを決め、その人達に届けようと思ってデザインを変えました。ターゲットにしているのは健康に気を遣い、趣味にもアクティブでバイタリティのある50代の女性。良いものをきちんと評価してくださる方々だと思うので、そういう方に認めてもらって、指名買いをしてもらえるようになりたいです」
新たな100年の伝統を作り始めている佐々直。今後は会社の復興だけでなく、創業の地である閖上地区の復興や、街づくりにも貢献したいと市哉さんは語ります。
「閖上は会社の創業の地であり、自分が生まれ育った土地でもあります。笹蒲鉾を作っているメーカーも多いので、自分にとっては“蒲鉾の街”。やはり、いつかは閖上に帰りたいし、観光資源の多い閖上自体を発展させたいと思っています」
その第一歩として、津波でも生き残った桜の苗木を育て、閖上地区の貞山堀に100本の桜を植える「復興桜プロジェクト」にも積極的に関わっています。自分達のルーツを大事にするその姿勢があるからこそ、佐々直は100年の長きにわたって愛され続け、これからも愛されていくのでしょう。
株式会社 佐々直
〒981-1103 宮城県仙台市太白区中田町字清水15-1 自社製品:笹蒲鉾、揚げ蒲鉾、手のひら蒲鉾 ほか
※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。