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企業紹介第63回宮城県株式会社小山平八商店

オリジナルブランドでとどろかせる祖父の名

3月11日。津波警報が出ているとはいえ、まだ何となく余裕を感じていた小山達也さん(小山平八商店常務)は、工場の片付けをしながら「家の車も移動させたほうがいいかな」と思い、外に出ました。

小山平八商店の常務取締役と冷食部門の責任者を務める小山達也さん
小山平八商店の常務取締役と冷食部門の責任者
を務める小山達也さん

「父の位牌を取りに一時帰宅していた母が、ペットのうさぎと少しばかりのお菓子を持って工場に戻ってきたところでした。地震で家の中がメチャクチャになっていて位牌は探せなかったようですが、工場から自宅までは歩いてすぐなので、自分も車くらいは取りに戻れるだろうと考えていたんです」(小山達也さん、以下「」内同)

ところがその時にはもう、津波は小山さんたちが暮らす気仙沼に到達していました。家に向かって歩き始めた小山さんの目に飛び込んできたのは、津波が橋にぶつかり、堤防を乗り越えてくる姿でした。

「工場に引き返そうと思って振り返ると、今度は300メートルほど先の丁字路で家の屋根や車を乗せた黒い波がぶつかり合って、それがまるで壁のようになってこっちに迫ってくるのが見えました。私は急いで工場に戻り、母や家族の迎えを待っていた従業員らと一緒に屋上にのぼりました」

工場2階にまで達した津波は、周辺の工場や家屋を破壊しながら、内陸部へと向かっていきました。小山さんたちはその光景を、ただただ眺めるしかありませんでした。

「大火事の一番ひどいところにいた私たちは、一晩中とても恐ろしい思いをしました。家庭用のプロパンガスが爆弾みたいにものすごい音を立てて爆発するたびに、ビクッとしていました。水位も下がってきたのですぐ近くの避難所に移動することも考えましたが、そちらは人でいっぱい。その日は結局、工場で夜を明かしました」

寒さも厳しい中でしたが、幸いだったのは作業着やビニールなど、防寒に役立つものがたくさんある工場にいたことでした。翌朝、小山さんたちは東京消防庁の隊員たちに救出され、中学校の体育館に避難しました。

「母はその後、自分の実家に帰り、他の人たちも仮設住宅に移っていきました。私は当時独身だったので、後回しになりました。結局半年間、学校の体育館で寝泊まりしていたことになります」

その間、小山さんは全壊した工場の後片付けをしていました。気が遠くなるほどの作業でしたが、一旦解雇せざるを得なかった従業員たちがボランティアとして加わるようになり、復旧作業は加速していきました。そして2011年12月1日、小山平八商店は新しい工場と、再雇用した従業員とともに営業の再開にこぎつけたのです。

カキ専門ではないのに「カキ屋さん」と呼ばれる理由

小山さんが働く小山平八商店(宮城県気仙沼市)の社名は、小山さんの祖父でもある、創業者の小山平八さんの名前がそのまま使われています。生鮮、冷凍、冷食(冷凍食品)と3つの部門を持つ、いわば総合水産加工会社なのですが、一部の人たちからは「カキ屋さん」と呼ばれているのだとか。小山さんは、その経緯を次のように語ります。

「祖父の小山平八が創業したのは、明治時代までさかのぼります。当時祖父は、生産者からカキを買い集めて販売する仕事をしていました。そのため今でも、70代以上の方から『カキ屋さん』と呼ばれることがあります。そして息子たち三兄弟が昭和50年に株式会社小山平八商店を設立し、家庭用冷蔵庫の普及、スーパーの急成長という時代背景の中で会社を発展させてきました。今はさらにその子供たち、小山平八の孫世代がそれぞれ生鮮、冷凍、冷食の責任者となっています。私もそのうちの一人で、冷食部門の責任者を務めています」

ちなみに社名だけでなく、屋号の「まるき」(ひらがな「き」の丸囲み文字)も人名が由来です。小山家の先祖である小山きくさんから一文字取って「まるき」になったのだそうです。

世代を超えた親族の結束とともに事業を営んできた小山平八商店ですが、震災で一度失った販路を回復させることは簡単ではありませんでした。震災後、同社の冷食部門は秋鮭のフィーレやイクラの加工などから作業を再開し徐々に仕事を増やしていきましたが、元の水準に戻すには、生産能力の向上と、これまで取り引きのなかった業者への積極的な営業が不可欠でした。

機材導入で増産実現もまだまだ人が足りない

小山さんは新たな販路を開拓するため、水産加工業販路回復取組支援事業の助成金を活用し、新しい機材を導入しました。

「今は募集をかけても人が集まりません。そこで人手不足に対応するために、フィーレマシンやシボリングブレッター(パン粉付け機)を導入しました。これらの機材により生産効率が上がり、増産が可能になりました」

自動で魚をカットするフィーレマシン
自動で魚をカットするフィーレマシン
フライ用のパン粉を付けるシボリングブレッター
フライ用のパン粉を付けるシボリングブレッター

また昨今ニーズが高まっている、個食パックや衛生面強化に対応する機材も導入しました。

作業着に付着した小さな埃を吸い取る作業着ダストクリーナー
作業着に付着した小さな埃を吸い取る作業着ダストクリーナー
個包装にも対応し、ラベルの作成までを一貫して行えるように
個包装にも対応し、ラベルの作成までを一貫して行えるように

増産が可能となり、顧客ニーズに応える準備も整った。ところが、計算通りにいかないこともありました。

「主力だったイカ製品が、このところの不漁により全く作れない状況です。サンマも少なくなっていて、この先どうなるかは分からない。当面はイワシ、サバ、カキの加工品を中心に展開していくことになると思います」

人手不足も解消したわけではありません。現在、冷食工場には10人の従業員がいますが、小山さんは「本来は18人で稼働させたい」といいます。機械だけ入れても、それを使う人がいなければ生産量は増やせません。今いる人材、今ある原料で何ができるか。新しく加わった元大手加工メーカー出身の営業スタッフとともに、さまざまな施策を考え、実行に移しています。

若手の関係者を紹介した父の先見

祖父が基礎を作り、親世代が発展させてきた会社を再建すべく奔走する小山さんですが、もともと水産加工業で働くつもりはなかったといいます。進学のために上京した小山さんは一度、東京の会社に就職しています。

「就職した年の11月、父の病気が深刻であることが分かり、気仙沼に帰ってきました。医師からは、父の余命は残り2ヶ月と言われていました。私はその頃から小山平八商店で働き始め、父からいろいろなアドバイスをもらいました。工場の作業自体は小さい頃から手伝っていたこともあって一通り分かっていたのですが、商売のやり方が分からなかったのです」

小山さんの父・勝郎さんは、特にああしろ、こうしろとは言わなかったそうです。ただ、息子のために取引先の若い人たちを紹介しました。なぜ経験豊かな人ではなく、経験の浅い若手を紹介したのでしょうか。

「その後、父は余命宣告よりも長く、8年間生きました。今思うと、父はあえてそうしたのだと思います。私と年齢の近い人を紹介してくれたおかげで、この20年近く、その方たちと一緒に成長してきたという実感があります。皆さん、現在は会社の中核を担う立場になっていて、今でもいろいろな場面で助けてもらっています」

そんな小山さんがこれから特に力を入れて取り組もうと考えているのが、自社ブランドの確立です。原料不足、人手不足を乗り越えるには、同じ売り上げでも利益率の高い自社ブランド製品の拡充が鍵を握ります。

「従来、冷食製品の1%ほどしか自社ブランド製品はありませんでした。それが今は2割ほどにまで増えています。今後は東北だけでなく関東地方にも自社ブランドを売り込んでいこうと思っています」

自社ブランド製品の一つ、炊き込みごはんキット(カキ)
自社ブランド製品の一つ、炊き込みごはんキット(カキ)
宮城県産かきフライ(導入機器で生産したもの)
宮城県産かきフライ(導入機器で生産したもの)

すでに、大手スーパーや弁当チェーンとの取り引きも始まっています。「自社ブランド比率を4割程度にまで増やしたい」と話す小山さん。小山平八商店ブランドが広がる手応えを、確実に感じているようです。

株式会社小山平八商店

〒988-0036 宮城県気仙沼市弁天町2-221-1(冷食工場)
自社製品:各種フィーレ、フライ製品、
炊き込みご飯キット(カキ、サンマ)ほか

※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。