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企業紹介第58回宮城県大興水産株式会社

不撓不屈の精神で、「より良い方向へ」進み続ける

大興水産は高度経済成長期のただ中である昭和45年に創立されました。当時は水産業界も北転船全盛の右肩上がりの時代。当初から今後の成長を見据え、株式会社としての体制をきちんと整えて設立されたそうです。大興水産の4代目社長である大塚俊夫さんは、創立から3年後の昭和48年に大興水産に入社。ただしその入社経緯は、一風変わったものでした。

「父親と創業者が古くから知り合いだったんです。創業者が“大卒の若手社員がどうしても欲しいから”ということで、父と創業者の間で話がまとまっていたようで。自分が全く知らないうちに、ここで働くことが決まっていました。晴天の霹靂でした」(大塚さん)

大興水産株式会社 代表取締役 大塚俊夫氏
大興水産株式会社 代表取締役 大塚俊夫氏

学生時代に築地でアルバイトをした経験から、水産業に興味を持っていた大塚社長。大興水産からの誘いが来た時、すでに大手商社の水産事業の内定を得ていたのだそうです。しかも海外支社の現地採用枠で、現地に永住するつもりだったところが、急遽、大興水産の社員となることになりました。

「当時はまだ固定相場で、限られた人しか海外には行けなかった時代。ただし、商社の現地採用枠であれば海外に行くことが可能だったんです。これは大チャンスだと思ってスペインに行く気満々だったのに、なぜか石巻赴任になっていました」(大塚さん)

アルバイトはしていたものの、関東出身で水産とは縁もゆかりもなく育った大塚社長は、水産を家業とする家庭が多い石巻では「異端児扱い」だったと言います。それでも、先輩や上司に恵まれ、無我夢中で働き、当初は「3年だけ」のつもりだった大興水産での生活が10年を経過した頃、石巻に骨を埋める覚悟をしたそうです。

この時期は会社の業績もかなり好調だったそうですが、大塚さんはそれに甘んじることなく昭和50年代後半から海外での輸入事業を開始します。アイスランド、ノルウェー、グリーンランド、フェロー諸島などバレンツ海沿岸に日本人スタッフを連れて行き、現地スタッフを教育。海外事業のパイオニアとなりました。

「海外でのサバの冷凍事業など、我々が一番最初に手掛けたことは多いです。それが成功して、さあこれからという時に資本力のある大手が参入してくるので、また新しいアイディアを出して他の事業を展開することを繰り返しました。言葉も出来ないのに1人で現地に行ってイチから全部開拓して。たくさん恥もかいたけど、すごく勉強になりました。あの頃は何をやっても楽しかった(大塚さん)」

「皆の力を最大限に生かす」のが社長としてのスタイル

大塚さんが代表取締役社長に就任したのは平成19年。ご自身は「孤独な経営者になることには乗り気ではなかった」そうですが、大塚社長の代になってから社風に変化が起こったと総務部門の担当である尾形さんは語ります。

大興水産株式会社 取締役(総務部門担当)尾形勝さん
大興水産株式会社 取締役(総務部門担当)尾形勝さん

「現社長になってから“話が通りやすくなった”というのは実感しています。社員の話をとてもよく聴いてくれて、間違った方向にいきそうになっても、頭ごなしに否定するのではなく、アドバイスという形で方向転換をしてくれる。決断も速いので、やりとりがスムーズになり社員のモチベーションはあがっていると思います(尾形さん)」

また、大興水産は日本人を雇用するというところにもこだわっています。

「白物家電もAIも、日本の技術がどんどん海外に流出してしまっている。今、アイスランドやノルウェーでは漁業の人気が高く、公務員から転職する人も多いのに、日本では漁業の魅力はどんどんなくなってきている。せっかく教えたことが海外に流れてしまうより、お金がかかっても匠と言えるような優秀な人材を作って日本に残すべきだと考えました(大塚さん)」

現在採用しているのは新卒の高校生が中心。そのため大興水産は、社員の半数近くが20代という非常に若い会社になりました。経営陣も「頑張ればチャンスはある」と積極的に若手社員に働きかけ、結果として社員のモチベーションが非常に高いと言います。

震災の経験を最大限に生かし「津波避難ビル」を完成させる

海外事業を立ち上げたり、人事制度を率先して見直す大塚社長の「パイオニア精神」は、震災からの復興でも発揮されました。自社ビルを再建する際、「津波避難ビル」にすることを決断したのです。土台を2m底上げし、津波の届きにくい3階はフローリングではなくカーペットにして「いざという時でも暖かく寝られる」環境を整えました。介護室も設置し、ベッドや車いすも常備。4階は備蓄スペースとしました。

「自分達が被災した時、“こうだったら良かった”という記憶を頼りに出来る限りの設備を整えました。自分達が雪の中、外で一晩過ごした時に、何が一番欲しかったかと言ったら“暖かいこと”と、“皆といる”こと。あとは、子どもや女性など弱い人ほど助けるのが難しかったのでデリケートな人向けに介護室を作りました(大塚さん)」

アイスランドなど海外の友人から「何か助けになりたいが、何が欲しいかわからない」と言われたことから、連絡手段の重要性も痛感。「エベレストの上からでも通信ができる」衛生無線も配備し、常にSOSが出せる環境も作りました。

避難ビル第一号の認定証。大塚社長が「一番でないと意味がない」と宣言して獲得
避難ビル第一号の認定証。大塚社長が「一番でないと意味がない」と宣言して獲得

避難ビル第一号の認定証。大塚社長が「一番でないと意味がない」と宣言して獲得

避難ビルを建てようと決心した背景には、甚大な被害がありました。石巻漁港の前に位置する大興水産は、震災時、事務所、工場の建物すべてが大破。資材、設備、金庫なども大半が流出し、流出しなかったものも使用不可能な状況になりました。創業者も津波で亡くなり、大塚社長ご自身も、震災当日、命の危険を感じた瞬間があったそうです。

「震災の時、自分は事務所の2階にいました。波を避けて沖に出るため、船がまっすぐ動くのが見えたので、“津波が来る”とわかりました。すぐに社員を集めて“絶対に津波が来るから、とにかく高いところ、遠いところに逃げろ”と言って、15:00前に解散しました。自分も全部の建物を見回ってから自宅に帰って、“さあ逃げよう”と思ったら渋滞で車が動かなくて。仕方がないので高台にあるスーパーの屋上駐車場に行きました。3m近く高さがあるので大丈夫かと思ったら、波が目の前に上がってきて、その瞬間は“終わりだ”と思いました(大塚さん)」

それでも4月半ばには仮事務所を構え、5月にはアイスランドの友人が送ってくれた鯨を使って、社員全員で炊き出しを実施。用意した3000食は30分でなくなったそうです。そして2012年の秋には、現在の事務所を完成させました。

大塚さんの行動が「不撓不屈の精神に富んでいる」と瑞巌寺の住職から寄贈された書。送り主とは面識はないが、「この精神に反しない行動をとることが返礼だと思って飾っている」(大塚さん)
大塚さんの行動が「不撓不屈の精神に富んでいる」と瑞巌寺の住職から寄贈された書。
送り主とは面識はないが、「この精神に反しない行動をとることが返礼だと思って飾っている」(大塚さん)

もともとあった高度な設備を、補助事業でよりグレードアップさせた

ハード面では復興を果たした大興水産ですが、業績の回復は道半ばです。以前の事業を回復させること、原発の風評被害を払拭することに手一杯で「海水温度の上昇が読めなかったことが原因」と大塚社長は語ります。海の変化によって、それまでと漁獲のパターンが変わってしまったのです。

「サバの水揚げが年明けにずれ込んだり、サンマ、イワシが北海道沖に流れてまったく水揚げがなかったり。サケも回帰率が悪い、イカもとれない、という状況で本来扱わない魚種でも扱わざるを得なくなりました。仕事の効率も悪くなるし、同業他社もそれまで扱っていない魚に手を出してくるので相場も高騰して、経営が厳しくなりました(大塚さん)」

そこで大興水産が支援事業により導入したのがポリサーターコンベアライン。もともと高度に機械化された設備を誇っていましたが、以前は製造ラインに対し箱供給のラインが不足していたため、箱供給ラインにスムーズに製品が供給できないことが多かったのだそうです。特に漁獲量や、魚種に変化が出てからは「何が揚がるか当日になるまでわからない」ので、打つ手がなかったそうです。

一番奥が、今回増設したポリサーターコンベアライン
一番奥が、今回増設したポリサーターコンベアライン
振動で魚の大きさを選別し、全自動で箱詰め。取引先が使いたい大きさの商品だけを出荷できるため、付加価値が生まれる
振動で魚の大きさを選別し、全自動で箱詰め。取引先が使いたい大きさの商品だけを出荷できるため、付加価値が生まれる
水産業界の中でも画期的な「自動化」を実現していたが、以前は箱詰めだけ手作業になることもあった
水産業界の中でも画期的な「自動化」を実現していたが、以前は箱詰めだけ手作業になることもあった
「昔は3Kと言われた仕事だが、自分達の仕事は肉体労働ではなく、緻密な計算。今までの漁業のイメージを変えたい」と語る工場長
「昔は3Kと言われた仕事だが、自分達の仕事は肉体労働ではなく、緻密な計算。今までの漁業のイメージを変えたい」と語る工場長

コンベアラインの導入により、処理時間も短縮され、生産は1日あたり50トン増加しました。また震災後、新たなラインの導入によって、省人化も可能になったそうです。

水産業は「自然相手の仕事」。漁獲の状況が安定しない以上、製造ラインが整ってもすぐに回復とはいかないかもしれません。今後も「海の状態の把握や、コストダウンなどやらなければいけないことは多い」と危機感の強い大塚社長。ただし「社員に負担を強いることだけはしない」と決めているそうです。実際に、震災の時も「解雇はしない」という方針を早くから明確にし、それが社員の安心にも繋がりました。

「役員は責任ある立場なので、利益が出なければ報酬減もやむをえない。でも、社員の給与を1円でも下げたら、社員は皆不安を感じます。社員は一緒の船に乗ってはいるけれど、舵をとっているわけではない。舵をとる船頭がろくでもなかったら“この船に乗る価値はない”と見切りをつけて当然です。だから経営者は自分のことは度外視してでも、皆のために何が出来るかを常に考えなければならない。借金しても、自分が棺桶まで持って行けばそれでいいんです(大塚さん)」

どんな状況にあっても、社員のため、そして地域のため。まさに「社会の公器」として会社を守る大塚社長がいる限り、大興水産は、更なる発展をしていくことでしょう。

株式会社ヤマヨ

大興水産株式会社

〒986-8540 宮城県石巻市魚町2丁目6-8
自社製品:加工用原料(さば、さんま など)

※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。