震災後の三陸地方では、復興政策による支援もあって新しい水産加工場が次々に建てられました。しかしその一方で、復興のために元の場所を立ち退かなくてはならなかったケースもあります。
岩手県釜石市内の工場で操業しているTRS食品も、以前は北隣の大槌町に自社工場がありました。しかし同町港町の本社工場は津波によって流され、その後に拠点としていた吉里吉里地区の工場も防潮堤の建設により立ち退きを余儀なくされました。
夫婦で会社を切り盛りする田中茂さん(同社営業部長)は現在の状況をこう語ります。
「吉里吉里地区の工場は、被災後に修繕をして2011年11月から使用していましたが、防潮堤が建設されるため2017年1月いっぱいをもって立ち退きました。現在は他社から工場を借りて操業しています。新工場を建てたい気持ちはありますが、業績がまだ回復しておらず、規模が小さく補助金も対象外なので今は厳しい状況です」(田中茂さん、以下同)
現在の工場は新工場ができるまでの仮の工場ではあるものの、「吉里吉里の工場よりも作業場が広くて使い勝手がいい」と製品づくりへの影響は小さい様子。大槌町、山田町、釜石市の魚市場にアクセスしやすい立地で、地元原料の調達にも問題はなさそうです。しばらくはこの場所で復興を目指すことになります。
TRS食品は1999年(平成11年)、漁業事業を行っていた田中漁業株式会社の加工部門が分社化して誕生しました。
「私の家は代々漁師の家系で、先祖は江戸時代から漁業関連の仕事をしていたと聞いています。イカ釣りや突きん棒などの漁業で開業したのが昭和初期。昭和30年代にはマグロ漁船を購入しました。その際、お金を借りる条件として提示されたのが、よその加工会社をうちで引き取るというものでした。それが合流して田中漁業の加工部門となり、後にTRS食品として分社化しました。漁業のほうは減船政策の影響で3隻あった船をすべて売却し、現在は行っておりません」
加工事業を始めた頃は、イカ刺し、ホタテのボイルなどを手がけていましたが、ホタテは原料不足により失速。その代わり、県をあげて増産体制が敷かれたイクラの加工が増え、現在は同社の主力製品の一つとなっています。
TRS食品の基本は昔から一貫しています。それは、地元産の原料にこだわるということ。しかし経営状況は、震災を境に大きく変わりました。工場の移転だけではありません。売り上げに大きく影響しているのが従業員数です。震災前、25人いたTRS食品の従業員は現在15人。減った人数分が、そのまま売り上げの減少につながってしまったのです。
「人を増やしたいのですが、今は募集しても人が来ません。昔は『薄利多売』で多く生産することができましたが、この人数でそれはできない。いかに作業効率を上げられるか、付加価値を高められるかを考えています」
そのためには、いくつかの機材を揃える必要がありました。田中さんは、水産加工業販路回復取組支援事業の助成金を活用し、真空包装機、殺菌水発生装置、小型高温高圧調理器などの機材を導入しました。
「真空包装機により、サケのフィーレの袋詰め作業の時間が短縮されました。また従来は熱湯で道具などを殺菌洗浄していたため、それを準備するのに時間がかかっていましたが、殺菌水発生装置の導入によりその日の仕事を30分早く始められるようになりました。燃料費のコスト削減にもつながっています」
導入機材によって、新たな製品も誕生しました。
「当社がメーンに扱っているサケは、秋の短期間しか仕入れがありません。そこで前浜で取れるサンマ、サバ、タラといった魚を使って干物を作っています。すでにあるスチームコンベクションでは焼くところまでしかできませんが、高温高圧調理器と真空包装機を使って真空パックにしました。また、煮魚も作れるようになり、調理の幅が広がりました。高温高圧で調理しているので常温で保存できますし、骨まで食べられます」
田中さんがこのような簡便製品を手掛けたのは、ある思いからでした。
「関東方面の催事販売などに、当社の干物を持っていくことがあります。そこでよく、『うちのマンションでは焼けないんです』と言われます。住宅事情で魚を食べる機会が減っている方にも、もっと手軽に魚を食べてもらいたいという思いで、レンジで温めるだけで食べられる真空パックの製品を作りました。また訴求効果を高めるために、『骨まで食べる』というコンセプトを前面に押し出した包装にしました」
取材時に、試作中のサンマのみりん焼き、塩焼き、山ぶどう漬焼きを試食させてもらいました。田中さんが「ボリュームが出たほうがおいしいから」と話すように、サンマは肉厚。身の奥までしっかりと味が染み込んでいます。キャッチコピーの通り、骨もおいしく食べられます。骨とは分からないくらいに、やわらかい食感で。これらの試作品はバイヤーにも好評で、今後は商談会や展示会、催事などにも積極的に参加していきたいといいます。
震災当日、田中さんは大槌町港町の本社工場にいました。大きな揺れがあった後、田中さんは、小さい頃から聞かされてきた「津波は30分で来る」という言葉に従い、15分で片付けをしてすぐに逃げました。そのため、建物が流される被害に遭いながらも田中さんと従業員たちは無事でした。しかし田中さんは、海に近い自宅にいる父親のことが心配でなりませんでした。
「吉里吉里の工場の建物は、父の自宅にもなっていました。その日はちょうど私の弟(三男)夫婦が遊びに来ていましたが、3人は逃げる時間がなく、3階部分にあたる書庫に逃げました。津波の高さは3階部分を超えていました」
建物内で津波にのまれてしまった3人でしたが、奇跡的に無事でした。
「書庫内にエアポケットができて、3人は首まで浸かりながら顔を出してしのいでいました。吉里吉里地区では防潮堤が崩壊したため津波が一気に押し寄せましたが、遮るものがなくなった分、ものの数分で水位は下がっていきました。弟は、高齢の父を持ち上げる時にいくらか海水も飲んだようです。父を助けるのに必死だったのだと思います」
震災を乗り越え、改めて家族の絆を確認した田中さんは、震災翌年に新しい屋号「潮風堂」を名乗って再スタートを切りました。浜に面した吉里吉里の工場に、季節を問わずにいつでも潮風が吹いていたことが由来です。現在の工場から海は見えませんが、扱っているのは以前と同じ地元の魚。潮風とともに運ばれてきた海の恵みです。そして新たに別の風も吹きました。田中さんの次男、信博さんが帰郷し、TRS食品で働くことになったのです。
田中さんが大切にしているのは、人との付き合い。とりわけ地域の人たちとのつながりです。
「うちが漁業をやっていた時代からそうだと思いますが、お互いに分かり合って気持ちが通じれば、事業は続いていくと思います。従業員や取引先、地域の皆さんとのつながりを大事にしながら、やれるところまでやっていくつもりです。今はものがなく厳しい時代ですが、それをどう乗り越えるかが試されています。新商品の開発や販売は初めて挑戦することも多いので簡単ではないとは思いますが、これからの売り上げに期待しています」
TRS食品の名前の由来は、「トライ三陸(TRY SANRIKU)」。地元三陸の魚で良い製品を作り、それを全国のお客さまに届ける挑戦を続けていくという思いのもと、田中さんが命名しました。「息子が戻ってこなければ会社を畳むつもりだった」という田中さんですが、新しいつながりが次々に生まれている今は辞めるわけにもいかない状況。飽くなき「トライ」はまだまだ続きます。
TRS食品有限会社
〒026-0304 岩手県釜石市両石町第4地割38-9(現操業場所、本社は全壊のため閉鎖) 自社製品:大粒いくら醤油漬、新巻鮭切り身、サンマの山ぶどう煮、ほか
※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。