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企業紹介第193回千葉県田原罐詰株式会社

缶詰の既成概念に捉われない柔軟な発想で、
昭和初期からの歴史を令和に引き継ぐ

「ちょうした印」のブランドで知られる田原罐詰。さんまの蒲焼の缶詰の元祖でもあります。1929年(昭和4年)に現社長である田原義久さんの祖父に当たる田原久次郎さんが千葉県銚子市で田原罐詰工業所を創業し、国内向け「いわし大和煮」缶詰の製造と、缶詰用空缶の製缶を開始したのが始まりです。

「銚子港は親潮と黒潮、利根川の3つがぶつかるのでプランクトンが豊富で、創業当時から水揚げが盛んでしたが、今と違って冷凍技術などないため、保存するために缶詰を作り始めたんです。また銚子は醤油醸造の発祥といわれる和歌山県、紀州から渡ってきた人が多く、江戸時代から醤油づくりが栄えてきました。そういった資源に恵まれていたことも缶詰製造の発展につながったのだと思います。戦時中は千葉県合同缶詰に企業合同しますが、終戦後の1948年(昭和23年)に田原罐詰工業所として事業を再開しました。1953年(昭和28年)には田原罐詰株式会社に組織変更。そして1955年(昭和30年)に製造開始したさんまの蒲焼の缶詰は非常に好評を博し、今も続くロングセラー商品となっています」(田原罐詰株式会社 代表取締役 田原義久さん、以下「」内同)

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田原罐詰株式会社 代表取締役 田原義久さん

缶詰に使う缶も、最初は半田ごてを使って自社で製造していたのだそう。その後、昭和40年代に入ると大手商社が主体となり、海外への輸出缶詰が大きく伸び始めます。当時は大手商社の食料部の3大事業がイワシ、ツナ、みかんだった時代。田原罐詰で製造された商品も大手商社ブランドとしてヨーロッパ、中東、東南アジアなど50か国以上もの国々に輸出されていきました。

またアフリカ向けのODA事業向けにも大量の製造を行いました。しかし、その方針を見直さざるを得なくなってきたのが平成以降です。

「昭和の時代は単一商品の大量生産だったのですが、為替が自由化されて以降、どんどん円高が加速していきました。それまで360円で売っていたものが100円台になると商売にならないでしょう。それに東南アジアでの現地生産が伸び、輸入関税が引き上げられて、輸出では立ち行かなくなってきたのです」

そこで田原罐詰は、創業時から続くオリジナルブランド「ちょうした」での製造販売の強化に踏み切ります。実は銚子市内にはもともと12社缶詰工場があったそうですが、戦後、商社ブランドのOEM生産が主流になり、大量生産に対応できない会社は淘汰されてしまったのだそう。その後、輸入に陰りが見えると、OEM頼りだった会社も立ち行かなくなり、今は銚子市内で営業を続けている缶詰会社は数えるほどになってしまいました。

「今は自社ブランドが中心なので、大手企業さんには出来ない家庭料理の延長のような製品の開拓を続けています。淘汰されずに生き残ったものとして歴史を守っていく使命があるという思いもあり、他社にはない差別性を大事にしていきたいと思っています」

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社長室に飾られてある昭和49年当時の広告

自社は大きな損壊を免れたものの、
風評被害、資材不足、水揚げ減少で売上回復が足踏み状態に

義久さんは、銚子で生まれ育ちましたが、中学校からは親元を離れ、寮生活をしていたのだそう。寮では朝6時の起床から就寝まで時間厳守。洗濯機がない時代、洗濯板で洗濯をするなど自分を厳しく律する生活を送りました。大学卒業まで東京で過ごした後、兵庫県の缶詰やレトルトなどの保存食を学ぶ短期大学の聴講生を経て田原罐詰に戻り、最初はODA事業の表敬訪問としてアフリカ各地に赴く仕事をしたのだそう。その後、主に原料を担当しながら、徐々に経営にも携わるようになります。20年ほど前には、義久さん主導で工場を銚子に一本化。現在の場所に煮物を製造する第一工場、蒲焼など焼き物を製造する第二工場を併設する形を整えました。そして先代から社長を引継ぎ、経営も軌道に乗り始めた頃、震災が起こりました。

「3月11日は通常通り仕事をしていました。そしたらいきなり激しい揺れに襲われました。津波の話が出ていたので大丈夫かな?と思っていたのですが、幸い津波の被害はありませんでした。地震によって工場の変電設備や倉庫等の一部が損壊してしまいましたが、水道、ガス、電気などのインフラも無事だったため、翌週には稼働させることができました」

缶詰は、震災などの非常時には非常に有益な食品です。そのため震災後は、東北方面の取引先に被災物資として缶詰を供給することから始めたそう。阪神淡路大震災の時も熊本地震の時も同様に何か災害が起これば現地に缶詰を届ける活動をおこなってきました。

「同業者はOEM生産をしているところが多いので、自分たちの判断だけでは出荷できないんですよ。でも、うちは自社ブランドなので自由に出せるし、在庫も持っているので、積極的に支援の手助けをさせていただいています。先日はウクライナ向けの支援物資として水煮缶を出したりもしました」

その後、福島第一原子力発電所の原発事故を受け、まき網船の操業が制限されたため、原料の仕入れが今までのようにはいかなくなってしまいました。

このほかにも原発事故による風評被害の影響が大きく、原料の安全性について毎回証明書を添付して説明するも、取引先に理解していただくまでかなりの時間を要したといいます。

また、義久さんが一番大変だったというのが資材の調達。缶詰の土台とも言える缶の製造工場が仙台にあり被災されたため、資材の入手ルートが途絶えてしまったのです。このようなことが重なり、生産力は大幅に減少。その後、缶の資材は台湾から代替品を輸入することで凌ぎましたが、3年間ほどは生産量を減少せざるを得ない事態になったのだそう。

「海外なので運搬するのも時間がかかるし、春節など長期のお休みもあるし。それに他社も台湾の缶容器を求めていたので、供給量自体も少なかったんです。特にサバ缶などに使う主力の丸缶が手に入らなかったので、楕円形の缶に変えたりして、何とか生産を続けました」

しかし、原料や資材の調達の問題に加え、風評被害の影響や震災後より続く人手不足の影響、社会情勢の変動などもあり、震災前の水準まで売上を戻せずにいました。

支援事業によって原料のロスを大幅に削減。
省人化も達成できた

震災で落ちた売上を回復しようと、立て直しを図っていた田原罐詰。この状況をなんとか打破しようと義久さんは、令和5年度の販路回復取組支援事業を活用し、まずは年々貴重となっている原料の処理工程から改善を図ることにしました。

「鰯は魚へんに弱いと書くくらい脆い魚で、大事に扱わないとすぐにロスが出てしまいます。コストを上げないためにも1つ1つの原料を大事にしないといけません。いつまでも震災前と同じやり方をするのではなく、新しい方法を検討しようと思いました」

田原罐詰では缶詰に使用する原料の2/3は冷凍原料を使用します。以前は水を循環させて解凍していたものの、1日に10tもの量を解凍するため担当者によってばらつきが出たり、作業開始時点では上手に解凍できているものの、終盤では溶けすぎてしまい原料のロスにつながることがありました。

「いかに上手に解凍するかでロス率が全く違うので、今回、解凍機を入れさせてもらいました。今の機械は細かい設定ができるし、タイマーもあるので人によるばらつきがありません。今後、色々な季節に、様々な魚種で試してきちんとマニュアルを作れば、非常に大きな戦力になります」

また「いかにきれいに、上手にカットするか」も大きな問題。一次処理で、頭、しっぽ、内臓を除去しますが、以前の機械は豊富な水揚げを背景に大量生産をしていた「輸出全盛」の時代のもの。そのため内臓をとる過程で、身まで傷ついてしまうことも多かったのだそう。それが今回導入したヘッドカッターにより、効率良く裁断ができるようになり、製品の歩留まりも10%ほどアップしたといいます。

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導入したヘッドカッター
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切断面も以前の機械より格段に美しい

あわせて醤油タンクを導入したことにより、保管できる容量が増えたことで、醤油の入れ替え頻度も減少し、従業員の負担も減りました。解凍機、ヘッドカッターの導入により、それぞれの作業が従来7時間あたり8名必要だった作業が6名で行なえるようになったことで省人化も達成。その分の人手を新商品の開発などに割り当てられるようになりました。

「私は家業に入ってから40年間、今でも入札帽をかぶって市場に行っています。今では自分が一番の古株かな。原料をやっているうちに、仲間から色々な情報をもらうようになって、色々な原料を海外から輸入したり、豊洲などで買い付けたりしています。今後は前浜だけでなく、それらの原料を使ってどんどん新製品を作っていきたいと思います」

SDGsの視点も持ちながら、
「家庭の惣菜」に近い缶詰を作りたい

田原罐詰では義久さん主導で、ここ15~20年数年、様々な新製品開発に取り組んできました。その過程で、時代の流れを受けたSDGsに配慮した商品も、数多く生まれています。例えば最近製作したのはノルウェーサーモンの端材で作った缶詰。これらの端材を使うことでフードロスの削減にも貢献でき、原料の調達費も節約できます。

「ノルウェーサーモンは現地で削ぎ切りをするんですが、それを折りたたみ、玉ねぎスライスを加えて水煮にしたら、大きな塊のようになって食べごたえが生まれました。銚子は恵まれた環境で、今までは前浜だけ見ていれば良かったけれど、水揚げがどんどん減っています。大きな変化の中、“今まで大丈夫だったから今年も原料があるだろう”という理論が成り立たなくなってきたのが一番怖い。その中でリスク分散をするのはどうすれば、という視点を常に持っています」

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食塩でシンプルに味付けし、さらに玉葱の旨みを加えた「ノルウェー産アトランティックサーモン水煮」

他に、鮭のカマを使った缶詰も製造しました。実はカマも養殖サーモンを刺身等にする時に余ってしまう部位。これを何とか使える形にできないかと試行錯誤したところ、カマを塩焼きしてから缶詰に加工することで骨まで食べられるような製品にたどり着いたのだそう。こちらもフードロスに対応しつつ、カマという今までにない素材を使った画期的な商品です。

「大量生産にならざるを得ない大手さんには、そういう細かい芸当は難しいでしょう。我々は缶もフランスから輸入して、見た目からも差別化できる商品を目指しています。フランスからのアルミ製缶の輸入量、弊社は全国でも最大手なんですよ」

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国内で養殖された鮭のカマを遠赤焙焼製法で焼き上げた「骨ごと食べる鮭カマ塩焼き」

田原罐詰では保存食のイメージの強い缶詰を、家庭料理の延長戦上の「惣菜」に近い存在にしたいというビジョンを持っています。アルミ製の缶を使用するのも、熱伝導が良いので、殺菌時間を通常の缶詰の半分以下に抑えられるため、缶詰臭さを大幅に削減できるから。缶詰の代表格のサバ缶でも、金色の美しい缶にサバを3枚おろしにして味噌煮にしたものを「極の逸品」として販売しています。

「極の逸品シリーズのパッケージ写真、実は缶詰の中に入っている現物を撮影しているんですよ。他のサバ缶と違ってぶつ切りではなく切身になっているので、このままお皿に載せて一品のおかずになるようなイメージで作っています。今後は高齢化で年金暮らしの人も増えるけれど、缶詰のおかずとご飯なら500円で一食になる。そうやって消費者が食べるシーンを思い浮かべて開発することで、お客様に納得していただきやすいものができるかなと思っています」

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極の逸品シリーズの「さば味噌煮」

保存食、常備食として捉えられがちだった缶詰。そこに問題意識を持ち、缶詰の概念を変えようとする田原罐詰の製品が、「日常のお惣菜」として当たり前に食卓に並ぶようになる日は近いのかもしれません。

田原罐詰株式会社

〒288-0074 千葉県銚子市本町1982番地の1
自社製品:さば、いわし、さんま、さけ、ぶり、にしん、赤貝、いか等の缶詰レトルト食品

※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。