「昔はこの辺りにも映画館や銭湯、スマートボール屋さんっていう今のパチンコ屋さんみたいな遊び場もあったんです」
そう話すのは、岩手県最北端の町、洋野町で水産加工業を営むカネセ関根商店の社長、関根篤志さん(以下「」内同)。
現在は観光などに力を入れているこの町に、かつて多くの人を呼び込んだのは、漁業でした。同社傍の八木港は北陸地方からも出稼ぎの人が来るほど賑わっており、隣接する陸中八木駅から東京の築地まで、貨物列車で魚が運ばれていたのだそうです。
カネセ関根商店の創業は、1955年(昭和30年)。日本の漁業がこれからまさに絶頂期を迎えようという時でした。
「小学校の教員をしていた父と、水産加工場で働いていた母が創業しました。洋野町は天然ホヤの有名な産地ということもあって、両親も最初は天然ホヤを持って電車で八戸に出掛けて、路上で行商をしていたそうです。お金を蓄えてトラックを買ってからはもっと多くの売り物を積んで、冷蔵庫を建ててからはイカやタラなども運ぶようになりました」
加工場を構えたのは、法人化した1978年(昭和53年)。もともとあった加工メーカーの工場跡地を買い取り、現在も同じ場所で加工を続けています。
創業以来のこだわりは、地場の魚、水産物を扱っているということ。秋鮭フィレ、サバフィレ、塩蔵ワカメ、醤油いくらなどの幅広い加工品のほか、鮮魚の販売も行っています。
東日本大震災の地震発生当時、関根さんは仙台空港から中国の大連に向かう飛行機の中にいました。
「仙台空港の滑走路を助走している時に、飛行機の揺れとは別の揺れを感じましたが、飛行機はそのまま飛び立ちました。でもその時はまさか地上で大変なことが起こっているとは知らず、大連に着いて空港のテレビで震災の状況を知りました」
社長不在の会社でしたが、従業員全員が高台に避難し、人的被害はありませんでした。
「洋野町自体が人的被害ゼロの町だったんです。明治三陸地震(1896年)やチリ地震(1960年)の津波で亡くなった方がいたので、町では昔から津波を想定した防災訓練を行っていました」
当時1万8,000人弱いた町民一人ひとりが、自分の避難ルートを普段から確認しており、カネセ関根商店の従業員もスムーズに避難ができたようです。
しかし、帰国した関根さんを待っていたのは、想像以上の被害でした。
「関西国際空港を経由して青森空港に到着し、そこからは車で戻ってきました。そのとき初めて現場の状況を見ましたが、近くに港があることから工場に船が突っ込み、木造部分は全て流され、建物の鉄骨や土台だけ残されて、更地のような状態でした。うちは工場や倉庫など建物が9棟あって、残ったのは4棟でした。残った工場の2階の事務所まで浸水していたので、津波の高さは8メートルくらいだったと思います」
建物だけで約6億円の被害がありましたが、追い打ちをかけたのが、原料の流出です。カネセ関根商店では毎年、地元で水揚げのある秋シーズンに原料を買い、冷蔵庫に保管した原料を1月から8月にかけて加工していきます。3月は冷蔵庫がほとんど満杯の状態。そこに津波が来て、ほとんどが流されるか、廃棄処分となったのです。
「銀行から借り入れして魚を買って、それを売ってお金に換えているので、津波で魚が流されるのは現金が流されたようなものでした。震災前は平均すると3億から4億ほどの売上がありましたが、そんな会社で2億円近い現金が流されたことになります。建物と違って、原料の被害には補助金が出ないのでまるまる損害となりました」
工場については、その被害状況からして、補助金で建て替えることもできそうなところでした。しかし関根さんは、補修で対応しました。それも魚の水揚げ時期が関係しています。
「更地にして建て直すと、1年かかると言われました。それだとうちは潰れてしまいます。9月の水揚げシーズンまでに再開できないと、次の1年間の原料を買えないので工場が建っても仕事ができない。とにかく一日も早く再開することを優先しました。洋野町が早急に瓦礫を撤去してくれたこともあって、規模は縮小したものの8月に営業を再開できました。9月からは定置網漁船が魚を取ってきてくれたので、原料も買えました」
当時は苦渋の決断でしたが、関根さんは、判断は間違っていなかったといいます。
「2011年9月時点で動ける加工会社はまだ少なかったこともあって、原料の魚を安く買えたうえに一時的に注文が増えました。その後、魚が取れなくなり、原料、資材、人材、光熱費、すべてのコストが上がったことを考えると、大きな設備投資は必要ありませんでした。むしろそういう会社が倒産しているというケースも耳にします。うちもコスト高を念頭に利益を出すつもりでやっていましたが、結果的に出なかった。そこで付加価値を高める方向にシフトしていきました」
震災後は真空包装などの鮮度を保った高付加価値の製品が求められるようになってきていましたが、既存の工程では手作業工程も多く一回にできる個数も少ないため量産できない状況が続いていました。
そこで関根さんは、昨今のニーズも踏まえて、販路回復取組支援事業の助成金を活用して真空包装機を導入することにしました。
「真空包装する際、これまでは手押しの包装機を使っていました。力も必要なので従業員の負担にもなっていました。新しい真空包装機は、製品を並べてボタン押すだけ。しめサバを真空包装した場合、従来は2人で1時間かけて60パックほどの生産だったものが、新しい真空包装機の導入により同じ労力で240パックの生産が可能となりました。作業の負担が減ったうえ、数量を増やすことができるようになったので、これまでうちに回ってこなかった仕事も取れるようになりました」
また、関根商店の主力は秋鮭を使った製品で、その割合は全体の6~7割。しかし近年この秋鮭の漁獲が落ち込んでしまったため、新たに安定的な供給が見込める久慈の養殖銀鮭を原料とした真空パック製品の販売の話を進めていました。この事業にもこの真空包装機が役立ったといいます。
「既存の真空包装機では使用できる魚の大きさが限られていましたが、導入した機器は110センチ×60センチのサイズまで対応可能となったため、サイズが大きい銀鮭の定塩半身製品も生産できるようになりました。そのため、前年は2~3トンにとどまっていた出荷量も、2023年は10トンまで伸ばせました。2024年はさらに養殖銀鮭の取扱量を増やしていきたいです」
関根さんは、弟の博文さん(同社専務)とカネセ関根商店を一緒に支えてきました。二人とも、40年以上にわたりこの会社で働いています。関根さんによると、「自分は仕入れと販売、弟は銀行関連と現場」といった形で、それぞれ得意なことを活かして役割分担をしているそうです。
二人の両親は、会社の経営からは離れているものの、95歳、90歳で健在。そして母・トシさんは今も現役で行商の仕事をしているそうです。
「この工場で作ったものをトラックに載せて、朝3時に家を出て八戸まで運んでいます。もうかれこれ60年以上やっていることになります。顔なじみの人たちとの交流などもあって、やっているほうが元気なんでしょうね。行商という仕事を若い人はもうやらないし、うちのお袋が現役としては最後かもしれません」
震災後、建て替えではなく修繕を選択したのも、小さい頃から両親の背中を見て育ってきた兄弟が商売の厳しさを目の当たりにしていたからかもしれません。
そんなカネセ関根商店が今後目指すところは……。
「もっと工場を大きくしたい、新しい機材を導入したいという夢はありますよ。でも今は昔とは違います。魚がたくさん取れていた時代は、市場で買ったものを工場で凍結して、箱詰めにして送るだけで売上が伸びていきました。今は水揚げが減っていて、どこの加工会社もダメージを受けているような状況。だから大きな設備投資を進めるのではなく、効果的な機材を見極めたうえで導入して、付加価値を高めていくことが大事なんですね。今さら付加価値と言っても遅いかもしれませんが、やれることはそれしかないんです」
カネセ関根商店にとっての付加価値は、地元の海産物へのこだわりと、丁寧な加工技術です。そこに真空包装機のような機材の導入で、安心・安全と言った新たな付加価値も加わっています。
「90歳でも行商を続ける母親を見ているから、なまけるわけにはいかない」と、今後もたゆむことなく付加価値を高め、売上の向上を図ります。
株式会社カネセ関根商店
〒028-7903 岩手県九戸郡洋野町種市1-147-5自社製品:サケやサバのフィーレ、しめサバ、イクラ、塩蔵ワカメ、天然ホヤ ほか
※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。