株式会社ヤマゴを創業したのは、現社長である飯田清治さんの父、清さん。当初は農家と兼業しながら、水産加工の仕事も始めたのだそうです。飯田さんは、昭和50年代の初め、高校の卒業と同時にヤマゴに入社し、イワシの丸干しの製造を中心に水産加工の仕事を続けてきました。
「父が早くに亡くなってしまったので正確な創業時期は分かりませんが、戦時中には水産の仕事を始めていたと聞いています。以前は目の前の浜に船が着いて、そこで水揚げしたものを扱っていたようです。自分が小学生くらいには、自社で冷蔵庫を持って水産加工に特化していました」(株式会社ヤマゴ 代表取締役 飯田清治さん、以下「」内同)
現在、イワシの仕入先は銚子港、飯岡港が中心。社長である飯田さん、もしくは弟で工場長の明さんが実際に生の状態の原料を見て、吟味した上で仕入れます。特にイワシの旬である6~9月は、脂ののった良い原料が揚がります。それを大量に購入し、加工・凍結しておくことで、一年を通して、状態の良い商品を安定的に供給できるのだそうです。
「イワシで大事なのは何といっても時期。旬の時期に、しっかりと吟味して原料を仕入れています。加工は平成になった頃から、乾燥機に切り替えました。本当は天日の方が良かったけれど、灰や虫も入るし、衛生面を考えたら乾燥機の方が安心ですから」
家業を継ぎ、実直にイワシの丸干しを作り続け、2010年の秋には現在の工場も新設。近所の人を中心に従業員も増やし、事業は堅調に推移していたのだそう。しかし、それを一変させてしまったのが震災でした。
2011年3月11日、いつもと同じようにイワシの丸干しを作っているところに突然強い揺れが襲いました。地震で停電になってしまったので、その日は仕事を中断して、従業員もすべて帰宅させました。その後、防災無線で大津波警報が放送されましたが、遠浅で「津波は来ない」と言われていた地域であったため、最初は実感が湧かなかったのだそうです。
「え?大津波警報?と怪訝な気持ちでした。自分のところに津波が来るなんて、考えたこともなかったから。それで高いところに上って海を見ていたら、沖の方が真っ白になってね。それが実は津波だったんですが、津波の経験がなかったので最初は全然気づきませんでした」
津波の第一波が堤防を乗り上げてくるのを見て、海岸から200mほどのところにある自宅に戻ると、膝くらいまで波が押し寄せてきました。そこで、急いで高台にあった冷凍工場に避難。その後、ご家族と合流し、一緒に近くの小学校で、一晩を過ごしたそうです。夜のうちから、第二波以降の方が津波の規模が大きいという話は耳に入っていたものの、翌日工場を見るまでは、どういう状況になるのか見当もつきませんでした。
「翌日工場に行ったら、びっくりしました。あんなに滅茶苦茶になっているなんて想像もできなかった。前年の11月にできたばかりの工場にも、当時の事務所にも、色々なものが流れ込んできていて。建物は残ったけど、リフトも機械も塩水につかって全部使えなくなりました」
当時の被災の状況
それから1週間くらいは何も手につかず、茫然自失の状態だったそう。そんな状況から立ち直るきっかけをくれたのは、お子さんたちの行動でした。息子さん2人が率先して、黙々と工場の片づけを始めたのです。
「下の息子はちょうど大学を卒業する頃でした。学校に行っている時は、家を手伝うなんて全く言ってなかったけれど、あの被災の状況を見たら、子どもなりに何とかしなければと思ったんじゃないでしょうか。自分は、最初は何もする気がしなくてただ座って見ているばかりだったけれど、2人が一生懸命、片づけをしたり、泥をかきだしたりするのを見たら、自分もやらねばと思ったんです」
それから、飯田さんは奮起します。直せそうな機械は修理し、どうしても使えない機械は中古で安く仕入れ、震災からわずか3か月後の6月、工場再開に漕ぎつけました。
「機械の搬入をする業者の方も夜中まで作業してくれて本当にありがたかったです。高台にあった冷凍工場は被害が少なく、清掃するだけで使えたのも不幸中の幸いでした。規模は3分の2くらいに縮小しましたが何とかイワシの旬が始まる6月には仕事を始めることができました」
イワシの丸干しの生産を再開した矢先、また1つ問題が発生しました。風評被害を受け、売上が徐々に減少していったのです。1週間に100個の注文が入っていた得意先からの注文が、50個、30個と減っていき、ついに注文が来なくなる。そんなことが続きました。
「工場を立て直すので必死だったせいかもしれないけれど、風評被害って、こちらには何が起こっているのかわからないんですよ。なぜか知らないけれど、徐々に注文が減っていくという感じでした。1年くらいかけて少しずつ取引先がなくなっていって、ああ、これが風評被害なんだと気づいていきました」
震災から2~3年経っても風評被害はおさまらず、イワシだけでは売上を戻すことが難しいと判断した飯田さんは、新たにサバフィレの加工に着手しました。サバも銚子で安定的にあがる魚種。そこに新たな活路を見出したのです。そこで今度は、中古でサバ用の機械をかき集め、製造を開始。しかし、本当に大変だったのは「売ること」でした。すでに取引が固まっている中に参入していくのは予想以上に困難だったのです。委託加工元が見つかり、この事業がなんとか軌道に乗り始めるようになったのは、サバフィレの加工を始めて5年が過ぎた頃でした。
やっとの思いで掴んだ復興への手がかりを逃さないよう、サバの加工を強化すべく、ヤマゴでは販路回復取組支援事業を活用してトリミングコンベア、塩水漬込コンベア、洗浄ネットコンベアを導入しました。
「以前は中古の機械を無理やり集めたので、塩水漬込の機械もインバーターがついていなかったんです。なので原料に合わせて塩加減を調整できませんでした。今後はサバの大きさや、脂の乗り具合で時間を調整して、製品をより標準化することができます。減塩などの依頼があっても対応できるようになり、依頼元の要請にも応じやすくなりました」
震災前はイワシの丸干しだけを扱っていましたが、昨年はサバの取扱高が全体の2~3割を占めるほどに増加。さらに新しい機械の導入により、生産量が上がり、製品の品質が安定した今年は、取り扱いがさらに増え、全体の4割ほどにまで達する見込みです。
ヤマゴに入ってから、ずっとイワシの丸干しを作り続けていた飯田さん。本当は今でもイワシに愛着があるのだそう。ただし風評被害が収まっても、一度失った販路を取り戻すのは難しく、これからはイワシとサバの2本柱でやっていくと決めました。
「イワシは長年やってきたし、原料の見極めから製品化まで自分の思い通りにできるので、やりがいとしては大きいかもしれません。でもイワシよりサバの方が市場のニーズにはあっていると思うし、サバもこれから頑張っていきます」
今後、より多くの企業の要請に応えられるようHACCPに対応した建屋を建設する計画も進んでいます。修理したイワシ向けの機械も、一度塩水に使っているため故障が多く、そちらの機械の入れ替えなども必要になりそうです。
やることはまだたくさんありますが、今後を考える上で心強いのは、2人の息子さんがヤマゴに入社してくれたこと。被災してどん底だった時も、この2人の存在が、再開に向けて奮い立たせてくれる大きなきっかけとなりました。
震災での売り上げ不振から、立ち直る兆しが見え始めた途端、今年は新型コロナウイルスによる影響に苦しめられているヤマゴ。しかし、震災を乗り切った時のように、親子の絆でこの試練も乗り越えていくことでしょう。
株式会社 ヤマゴ
〒289-2523 千葉県旭市中谷里7987-4 代表商品:イワシ丸干し、サバフィレ
※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。