摂氏3度から5度の低温の風を、5時間から7時間当て続ける。低温熟成により完成した干物は、魚のうま味と水分が中に閉じ込められ、ふわっとした焼き上がりになるのだそうです。
「長時間、冷たい風を当てて熟成させているメーカーは珍しいと思います。短時間(30分位)だけ冷風を当てたものとは、うま味が全然違いますよ。うちではアジ、サンマ、サバ、ホッケ、アカウオなど、いろいろな魚で低温熟成の干物を作っています」
そう話すのは、ダイカ(宮城県気仙沼市)社長の春日雄一さん(以下「」内同)。春日さんの父・春日範雄さんが1964年(昭和39年)に創業した同社は、もともとは干物メーカーではなく、マグロの仲買業者でした。
「父親を早くに亡くした父は、中学を卒業後に水産関係の会社で働き始めました。その後マグロの仲買業者として独立し、はえ縄漁船からマグロを買い、東京の築地に出荷する仕事をしていました。最初は1日1、2本の規模でやっていましたが、それが5本、10本と増えていき、そのうちメカジキも扱うようになった。ダイカを設立したのは事業規模が大きくなってきた1975年(昭和50年)のことです。その頃からカツオの仲買業も始めました。社名の由来は、末広がりの『大』に春日の『カ』でダイカ、と聞いています」
マグロとメカジキの盛漁期が冬であるのに対し、カツオの盛漁期は夏。ピークをずらして異なる主力事業を持つようになったダイカは、時代の追い風にも乗り、右肩上がりの成長を遂げていきました。
「私は1987年(昭和62年)に大学を卒業後、気仙沼に戻って父の仕事を手伝うようになりました。当時、カツオの仲介業は順調に伸びていましたが、マグロの取扱量は減船や資源の減少により低下していました。冬季の新しい事業づくりが課題となっていたところに小田原の会社から『ノウハウを教えるので干物をつくらないか』と打診があり、1997年頃から干物づくりがスタートしました」
ところがほどなくして、小田原の会社の経営が傾き始めます。これを機に独自に干物の販路開拓を始めたダイカでしたが、春日さんは小田原や熱海、沼津などのブランドが強い関東圏で勝負するのは得策ではないと考え、東北地方を中心に営業を展開しました。
「鮭文化が根付く東北には当時干物文化はありませんでしたが、東北で製造すれば関東圏のものより輸送費が安いアドバンテージを活かし何とかなると思いました。当初はあまり売れませんでしたが、時代とともに人の移動が増えて干物も受け入れられるようになり、東北でもよく食べられるホッケやサバといった魚から徐々に種類を増やしていきました」
2011年3月11日、午後2時46分。地震の発生時刻は、本社工場ではちょうど出荷作業の真っただ中でした。当時春日さんは、本社工場から10分ほど離れた場所にいました。
「会社から、すぐ避難すべきかどうかを確認する電話がかかってきました。『出荷作業中のものも冷蔵庫に入れずにそのままでいいから逃げるように』と指示をして、中国人実習生など避難する場所がない人たちは私の家に来てもらいました。私自身はまず実家に向かい、高齢の両親の無事を確認した後、会社に戻って誰も残っていないことを確認して、渋滞を避けながら高台にある自宅に避難しました」
春日さんの自宅では、10人以上が夜を明かしました。しかし一晩で食べるものがなくなり、その後移動した春日さんの実家でもすぐに食べ物が尽きてしまいました。春日さんは中国人実習生たちが避難所の中学校で過ごせるよう手続きをしてもらった後、しばらくの間、復興のボランティアをしていたといいます。
「震災直後は、商売のことなんて全く考えられませんでした。海の近くにあった工場も津波で流されてしまった。ボランティアの途中、津波で流されたうちのコンテナを何度か見かけました。原料や製品を入れて冷凍保管するためのコンテナですが、製品はありませんでした。当時、私も含めてみんな食料を配給してもらっていました。そのことが心からありがたいと感じていたので、『うちの製品もみんな持っていって食べてくれたんだな』と思って安心しました」
同年3月31日、春日さんはダイカの社員を集めて、今後の方針を伝えました。工場が復旧するまで一旦全従業員を解雇するということ、6月からカツオの仲買の仕事を再開するということ、そして、1年後をめどに工場を再稼働するということ。早期の復旧を目指したのは、取引先から「ずっとは待てないが1年は待つ」と言われていたためです。
「早急に土地を探し、国からの補助金を活用して山あいに工場を建てました。山あいに移転したのは、取引先から『また津波が来ないとも限らないから、できれば海から離れた山あいに新工場をつくってほしい』という要望があったからです。新工場の稼働は2012年11月15日となりましたが、山あいに移転した気仙沼の水産加工会社の中では、おそらくうちがいちばん新工場の稼働が早かったと思います。多くの海水を使うカツオの出荷作業場は、震災前と同じく海の近くにつくりましたが、それ以外の加工の仕事はすべてこの工場でおこなっています」
再び災害があった場合に備えて、工場には従業員が一時的に寝泊まりするための畳のスペースも設置しました。実際にこれまで2回ほど、従業員が泊まったことがあるのだそうです。大きな警報ではありませんでしたが、震災以降、敏感になっている従業員にとって、会社に泊まれることは働くうえで安心材料の一つとなっているようです。
震災後、春日さんの悩みの種は、他社とのし烈な価格競争でした。東北が被災している間にも他地域では水産加工業者の設備投資が進み、ダイカなどの被災企業が工場を再開した頃には供給過多による価格競争が始まっていたようです。
「原料価格、衛生管理費用、資材価格、固定資産税など、全部上がっているのに、水産業界だけはまだ価格競争をしているという印象です。以前よりも経費がかかっているのに、適正価格になっていません。同じ価格の商品でも、これまで1パック3枚あったのが2枚になっていたり、魚のサイズが小さくなったりしていることもある。サンマなどの魚は、サイズの違いでうま味も変わってきます。消費者もおそらく望んでいないことでしょう」
これまでと同じ品質を保ったまま価格競争力をつけ売上を回復させるためには、設備投資が必要であると考えた春日さんは、販路回復取組支援事業の助成金を活用して、トレー自動包装機を導入しました。
「これまで8人でおこなっていた作業が、3人で済むようになりました。人手不足が続いているので、この省人効果はとても大きいですね。手が空いたスタッフには、そのぶん別の作業をしてもらっています。手作業での包装はどうしてもムラが出てしまいますが、この機械だとすべてきれいに包装できます」
現在、ダイカの最終製品全体の3割から4割ほどにこの機械が使われています。回復途上のダイカにとって、このトレーパックを使った製品比率をさらに高めていくことが売り上げ回復の鍵となりそうです。
水産業界の価格競争を懸念する春日さんは、消費者の魚ばなれに対しても、「干物はもっと食べられていいはず」と話します。
「干物を家で焼いて食べるのは面倒だという先入観を持つ人は多いと思います。でも本当は簡単に食べられるんですよ。コンロの下にある魚焼き器に入れるだけです。面倒というのは、そのトレーを洗うことだけ。手間はフライパン料理と同じです。電子レンジで温めるだけのものより、焼いた干物はおいしいですよ」
干物がいかに簡単でおいしく食べられるかということを知ってもらいたいという春日さんは、今後はより消費者に近い場所で直販していくことも視野に入れています。
「百貨店などにもうちの商品を置かせてもらっていますが、もっと販売量を増やしたいので、道の駅などに直売所があればいいなと思っています。干物といえば関東では小田原から沼津、関西では明石が有名です。それらに比べると東北の干物は関東圏で戦えるブランド力がまだないので、まずは東北を中心に展開していきますが、気仙沼ならではの魚を使えば東京でも価値を出せると思います。たとえばサンマの一番大きいサイズを干物にするとか、定置網に入ってくるホウボウを使うとか。水揚げされる魚も毎年変わります。突然ツボダイが入ってきたり、キンメダイが入ってきたり。そういうことが常々あるので、その都度考えながら展開していきたいですね」
近い将来、同社の気仙沼産の魚を使った珍しい干物が、東北以外の地域に並ぶ日も近いかもしれません。
株式会社ダイカ
〒988-0826 宮城県気仙沼市百目木327-1 自社製品:各種干物、生鮮カツオほか
※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。