「なんとしても、『いか塩辛の日』までに営業を再開させる!」
小野万(宮城県気仙沼市)社長の小野寺邦夫さんは、そんな思いを胸に47都道府県をめぐっていました。2011年の5月から7月にかけてのことでした。
「当社の工場は津波で全壊してしまいましたが、全国の取引先に『続けますのでよろしくお願いします』とあいさつ回りをしていました。『いか塩辛の日』というのは私が発案した記念日で、毎年10月19日をその日としています」(社長の小野寺邦夫さん、以下同)
小野万にとってイカの塩辛は、売り上げ全体の8割を占める主力製品。その味に絶対の自信を持つ小野寺さんは、“塩辛愛”が高じて『いか塩辛の日』まで作ってしまったのです。イカの足が10本あることと、イカを熟(19)成させて作ることが日付の由来で、ちょうどイカの旬とも重なります。一般社団法人日本記念日協会にも認定された、れっきとした記念日です。
しかしその記念日に何とか間に合わせたいという気持ちはあったものの、7カ月あまりという期間は、復旧させるのに決して十分とは言えませんでした。小野万本社のある地区は、チリ地震(1960年)でも被害がなかったため「津波は来ない」と言われてきましたが、東日本大震災では壊滅的な打撃を受けていたのです。
「地震の後、従業員たちに『津波が来たら山に逃げるように』と言ってすぐに帰らせました。私も近くにある高台の神社に避難しましたが、神社に上る階段の残り2段ほどまで津波が迫り、決して安全と言える状況ではありませんでした。結果的に全員無事でしたが、4つの工場すべてが全壊し、2つの冷蔵庫も骨組みしか残りませんでした」
被災した4つの工場すべてをすぐに元通りにすることはできないので、小野寺さんはまず、「東工場」の再開を目指しました。
小野寺さんが『いか塩辛の日』に操業再開を間に合わせたかったのには理由があります。イカの塩辛を作り続けておよそ50年。全国には小野万の塩辛ファンが数千人いるのだとか。
「当社を創業した私の義父、小野寺万三郎(まんざぶろう)は、昭和39年(1964年)にワカメなどの海藻類を加工販売する仕事を始め、3年ほどして塩辛づくりを始めたそうです。以来長く愛され、イカの部位を一本まるごと使った『一本造り』はロングセラー商品となっています」
小野万には例年多くの“ファンレター”が寄せられるそうですが、震災の年はそれまで小野万の社名を知らずに同社製品を食していた人たちからも激励の手紙が届いたといいます。
「商品ラベルを見て、被災地の会社が作ったものだと知った方が多くいらっしゃったようです。激励のお手紙は数万通に及びました」
小野寺さんが再開を急いだ理由はもう一つあります。ボランティアとして工場の片付けに来てくれていた従業員たちの生活を、一日も早く安定させたいという思いがあったのです。
「120人の従業員は、工場がなくなってしまったために解雇せざるを得ませんでした。それでも毎日多くの人がボランティアとして工場まで歩いてやって来て、泥だらけになって帰って行った。その姿を見て、早く復旧させなければという思いを強くしました」 9月下旬、東工場の修繕修復工事が終わりました。工場の規模は小さくなりましたが、戻ってきた人は全員再雇用。目標だった10月19日よりも早く操業を再開できたのです。
2002年から小野万でのキャリアをスタートさせた小野寺さんは、それまでは水産業界とは無縁の世界にいました。そのため当初は、一般消費者としての知識しかなかったといいます。
「小野万に来て、それこそイカの名前を覚えることから始めました。スルメイカやマツイカ、コウイカなど、種類はたくさんあります。天ぷらに使われるような短冊状になってしまうと、どれも真っ白で同じ形なので違いが全く分かりませんでした」
最初の一年間は、塩辛の原料であるイカについて少しでも詳しくなろうと、小野寺さんは一から勉強をしました。塩辛の歴史についても、日本の古代までさかのぼったといいます。そんな努力の甲斐あって、今では短冊切りのイカでも種類を見分けられるようになり、日本全国の塩辛メーカーの“味利き”もできるまでになりました。
当時、小野寺さんは40代半ばに差し掛かっていました。「遅いチャレンジ」と言われる年齢かもしれません。しかし小野寺さんには関係ありませんでした。実は小野寺さん、ゴルフを37歳で始めて、40歳でプロ試験に合格したという逸話も持つ現役のプロゴルファーでもあります。短期間で難しいことをやり遂げる集中力と忍耐力は、もともと持ち合わせていたのでしょう。それを塩辛づくりにも活かしています。
「塩辛で難しいのは塩分調整です。私たちは年間を通じて同じ味のものを出していくことが求められますが、塩辛はその日の気温や湿度によって塩分濃度を変えなければいけません。四季のある日本で、どうすればこの味を一年間キープし続けられるかということは常に考えています」
先代の万三郎氏が始めた塩辛づくりですが、小野寺さんは2009年の社長就任以来、自らも創業者のつもりで塩辛づくりに情熱を注いでいます。「いか塩辛の日」を制定しただけでなく、塩辛の味に関しても積極的に進化させてきました。
「義父は日本一の塩辛を作っていました。自分もそれに恥じないような新しい塩辛づくりを目指しています。たとえば新しい調味料も、調味料メーカーに1年間通って完成させました。塩辛は通常、塩漬けだけでは2、3日しか持ちませんが、それを商品として1カ月持たせるには工夫が必要です。当社は保存料を使わずに、独自の製法と調味料によって旨味を引き出しながら実現しています」
一度は震災で失った販路を販促活動により回復させてきた小野万ですが、従業員の数が120人から84人に減り、工場も狭くなったことで、生産量を増やしたくても増やせない状況が続いていました。そこで、販路回復取組支援事業の助成金を活用し、生産力アップにつながる新しい機材を導入しました。
塩辛の充填包装ラインでは、新たに二連充填機、二連包装機、金属検出機を導入。これにより、生産効率が25%向上しました。
海藻製品の加工を効率化させるものとしては、裁断カッター、ボイル冷却器、遠心脱水機、撹拌(かくはん)ミキサーを導入しました。これまで手作業で行っていた工程を機械化したことにより、少ない人数でも増産が可能になりました。
「新しい機械が来て本当に助かっています。でもまだ必要な機械の3分の1といったところ。震災後は急いで工場を設計したために機材を置く場所も限られていますが、冷凍機、乾燥機、焼成機、箱詰めロボットなどがあればさらに増産につなげられます」
イカを扱う全国の水産加工業者にとって、昨今の悩みといえば原料不足。小野万も例外ではありません。現在小野万では、国産イカと同割合で輸入イカも扱っていますが、最近は輸入イカも安くないといいます。ヨーロッパや中国で、イカが食べられるようになってきたためです。
人員不足は機械の力で穴埋めができますが、原料不足はどうしようもありません。それでも小野万は、震災後も着実に業績を伸ばしてきました。その要因を、小野寺さんはこう語ります。
「震災は当社にとっても大きな痛手でした。しかしそれが、社内のさまざまなことを見直すきっかけにもなりました。たとえば今、外部のコンサルタントに工場の作業を見てもらい、機械の配置などの問題で無駄な動きが発生していないか見てもらっています。一つの作業を3秒縮めるだけでも、全員で取り組めばまとまった大きな時間になり、新たな生産につなげられます」
増産への舵取りは需要があってこその話ですが、小野寺さんは営業で全国を歩きながら、その手応えを感じているといいます。
「まだまだ日本にも、塩辛や海藻が食べられていない地域がたくさんあります。年を取ると和食嗜好になりますし、これからの高齢化社会でも需要は伸びるはず。塩辛は決してメジャーな食品ではありませんが、昔からあって、現代にも残っている食材の一つ。和食のDNAを受け継いできた塩辛には、まだまだビジネスチャンスがあると思います」
人手不足、原料不足などのアゲンストの風が強まる中でこそ、小野寺さんの真骨頂は発揮されることでしょう。
株式会社小野万
〒988-0132 宮城県気仙沼市松崎馬場12-1 自社製品:いか塩辛、いか明太子、子持ちめかぶ、ほか
※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。