明治期に、現在の地茨城県・波崎に工場を構えて創業、今年で創業110年あまりという株式会社石橋商店。創業時から一貫して、波崎港、銚子港で水揚げされたサバ、イワシを買い付け加工してきました。
創業時から昭和30年初頭までは、近隣に住む女性たちの手仕事によるみりん干しなどの加工品を中心に製造、販売を行い、昭和32年に冷凍機を導入してからは、選別し凍結したサバ、イワシを缶詰加工業や養殖業者向けの餌料として卸し始めました。同じ頃、加工を担ってきた女性たちの高齢化、銚子港での水揚げが増えたことも重なり、徐々に凍結加工品メインにシフト。現在は、凍結加工品が主力商品となっています。
現社長の石橋徳久(とくひさ)さんは、1967(昭和42)年の会社設立から数えて三代目にあたります。先代で父の石橋定義(さだよし)さんから引き継ぎ、2017年に社長に就任しました。
2011年3月11日、徳久さんはいつものように波崎港に行っていました。この日は特に浜が盛況で、買い付けたトラック10台分もの大量のイワシを工場に搬入する作業に追われていました。あと残り3台で搬入が終わるというところで、突然激しい揺れが。この地震により、電気、水道が止まってしまい、トラックには搬入しきれなかった40トンの缶詰加工用原料となるはずのイワシがそのままの状態となったのです。翌日、電気復旧の再開の見通しがたたない状態の中、これらの原料を無駄にしないようにと、従業員総出で手作業でミンチに加工し、エサ用原料としてなんとか販売することができました。また、河口近くの川沿いに建つ冷蔵倉庫は浸水、周辺の道路も冠水し、津波で流されてきた船などが押し寄せてきたそうです。
その後起こった福島第一原発事故の影響で、波崎港での水揚げはストップ、中国、ロシア、韓国に向けて輸出もストップしました。さらに、国内向けの餌料や加工品用原料も取引中止になる例が相次ぎ、震災直後の年の売上は、震災前の25%減となりました。
「当時はこの商売を続けて行けるのか、先が見えない状況でしたね」(石橋徳久さん、以下「」内同)
潮目が変わったのは、銚子港での水揚げ量が安定し、波崎港での水揚げが再開した2年ほど前。震災前には、売り上げの1割から2割だった輸出に、新たに東南アジアやアフリカ諸国に向けての輸出が伸び始めました。
「新興国が新たなたんぱく源を求めた結果のニーズだと思います」
これは、社長就任とほぼ同時期の転換期でした。
「海外での需要があるなら、まだ先は明るいなと思いました。そこから輸出向けの加工品製造に注力することにしました」
近年、新たに需要が増えてきたアフリカ諸国向けの輸出のニーズに応えるためには、コンテナ10本(1本25トン)単位での取引ロットに対応する必要がありました。
そこで、支援事業を活用し、選別から凍結加工までの一連のラインの生産性向上のため、魚種、サイズを細分化して一度に選別できる「小型自動選別機」、凍結用のパンを自動で積み上げる「パレオート」、「搬送コンベア」をはじめとした冷凍生産ライン一式を導入します。これにより、スピードは1.2倍に。また、これまでライン合計で13人必要だったところを、11人に省人化。従来は繁忙期に派遣による臨時雇用をしていたところが不要になるなどの成果を得ました。
また、従来の機器一つひとつに備えていたコンプレッサーを一括で動かすことのできる「スクリューコンプレッサー」を導入した結果、一つの機器の不調でラインが滞る事態がなくなり、一日の作業、生産量の見通しが立てやすくなったとのこと。輸出向け製品の増加、近年のサバ豊漁とサバ缶詰の需要の伸びなどから、売り上げは堅調に回復、このまま水揚げ量が順調に推移すれば、今期7月の決算では震災前と同じ売り上げ高を見込めるまで回復したそうです。
それには、波崎エリアでの水産加工業者同士の連携も功を奏したと徳久さんは言います。
「波崎では、個人経営の加工業者が多いので、1社だけでは輸出向けの取引ロットをまとめられないんです。だから、同業者で連携してロットをまとめて、輸出ブローカーにかけあう必要がありました。私たちも他社に声をかけてもらいましたし、私も呼びかけたり、波崎全体で復興に向けて動きたい、という思いがありましたね」
徳久さんは、今後の課題について次のように語ってくれました。
「今回導入したコンプレッサーはまだ余力があるので、今後は現在手作業で行っている箱詰めの作業を、機械化したいと思っています。輸出に関しては、さまざまな国に対応できる汎用性の高い梱包資材の開発も課題です。国によってナイジェリアでは、段ボールに入っていないと小売りができない、東南アジアでは箱に入れない方がいいなど、それぞれの国によって細かいニーズがあります。その細かいニーズを的確にとらえた加工ラインを整えないといけません」
そうした国ごとの細かいニーズについては、どのように情報収集するのでしょうか?
「毎日の買い付けの現場です。市場に輸出業者、商社の担当者も足を運んできますから、そこでの情報収集がとても大切ですね」
徳久さんが市場に足を運び買い付けを担当するようになったのは、22歳で家業についてから、3、4年後のこと。現在会長の定義さんが病に倒れ、療養を余儀なくされたため、急きょ買付の役割を担ったそうです。
「なにもわからなかったので……、周囲の先輩たちに教えてもらいながら、少しずつ覚えました。昔からこの地域では同業者のつながりが強かったかな、そのおかげで支えてもらいましたね」
力を貸してくれたのは、自分の父親ほど歳の差のある波崎での同業他社の先輩たちでした。その頃の恩義が、今、波崎全体を活性化したい、という思いにもつながっていると徳久さんは言います。
「原発事故後は、波崎港と銚子港では目と鼻の先しか離れていないのに、茨城県というだけで買い手がつかないなどもありました。波崎に生まれて育ったからには波崎をもっとよくしていきたい。銚子と肩を並べて競い合うぐらいにね」
そして、もうひとつ徳久さんには、強い思いがあります。
「将来、息子に明るい未来を感じさせる状態で引き継ぎたいんです。ふたりいる息子は小学校3年生と保育園の年長児。長男は『将来は水産加工屋さんになりたいです。魚が好きだからです』と作文に書いてくれたんですよ」
とうれしそうに話す徳久さん。
ゆくゆくは、冷凍器を増強して一社で取引ロットをまとめ、柔軟かつ迅速に注文に応えられるようにしたいそう。石橋商店の凍結能力は現在200t。コンテナ1本が25トン。コンテナ10本単位での取引が多く、合計250トン。あと50トン増強することが目標です。
「学生のころは、とくに豊漁の年が続いていて、家族は夜中までサバを手で捌き続けていていました。あー、また家にサバが……、と思ったら家に帰りたくなくて、部活を一生懸命やっていましたね。10年単位ぐらいで獲れる魚種が入れ替わる傾向があるのですが、単価の安いカタクチイワシしか獲れないときは、少しでも高い単価で卸すことができるように、外食向けの加工を手掛けたり、いろいろと試行錯誤を続けてきました。今はサバが豊漁で加工用のサバの需要も高く、いい時期だと思います。ですが、息子に引き継いだ後に、またどうなるかわかりません。そのときに乗り越えて行けるように、今、輸出業の安定、ラインの増設などできることをするつもりです。もちろん、地域全体が活性化して若い世代の雇用も生み出していくことが、私たち世代の課題ですよね」
これまでいい時期も悪い時期もあった、と真新しい波崎港を前に話してくれました。 100余年の歴史の上にたつ石橋商店と波崎の未来への礎を、今新たに築いている。 徳久さんの言葉にはそんな力強さがあふれていました。
株式会社石橋商店
〒314-0407 茨城県神栖市波崎8889番地 自社製品:さば、いわしの選別加工、凍結加工
※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。