水産加工とゴルフ。普通なら接点がないはずの両者ですが……。
フカヒレ姿煮やフカヒレスープなどのフカヒレ加工品を製造する石渡商店(宮城県気仙沼市)の工場敷地内にはゴルフ練習場があります。なぜ業種の異なる二つの施設が同居しているのでしょうか?
「当社の創業者である私の祖父・石渡正男は、クレー射撃の国体選手でした。趣味が高じてこの場所に射撃練習場を作ろうとしたところ、許可が下りなかったためにゴルフ練習場にしたそうです。水産加工場はもともと海の近くにありましたが、震災の津波で全壊しました。できれば同じ場所で再開したかったのですが、そこに防潮堤が建設されることが決まったため、ゴルフ練習場の敷地を半分使って新しい工場を建てることにしたのです」(石渡商店専務の石渡久師さん、以下同)
2012年9月、海から山へ工場を移転した石渡商店ですが、気仙沼魚市場から5キロほど離れているこの場所で不便はしていないのでしょうか?
「市役所まで車で10分多くかかるようになった程度で、特に不便は感じていません。ただ、山の工場ということで排水には気をつけています。下には田んぼもあるので、一般家庭よりもキレイな水質にして排水しています」
「フカヒレ料理の専門店」の看板を掲げる石渡商店ですが、フカヒレは景気に左右されやすい食材。景気が良ければ同社の業績も上がりますが、景気が悪くなればフカヒレのような高級料食材は真っ先に“削減対象”になります。2008年のリーマン・ショックでも、同社は大打撃を受けたといいます。それでも2年ほどすると景気は上向き始め、中国では“フカヒレバブル”に。そんな状況に水を差したのが東日本大震災でした。
「私はその時、商談会に出席するため中国の上海にいました。日本が大変なことになっていると知ったのは、妻からかかってきた一本の電話でした。妻は慌てた様子で、『いま津波に追いかけられている』と話していました。妻が鉄筋の3階建ての建物に逃げ込んだところで、通話が途切れました」
翌日、石渡さんは急遽予定を変更して帰国。しかし交通機関が麻痺した状況での帰郷は簡単ではありませんでした。
「成田空港まで友人にバイクで迎えに来てもらい、板金屋さんから借りた車で気仙沼を目指しましたが、国道4号線は福島まで道路が凸凹になっていて車移動だけで20時間もかかりました。気仙沼に到着したのは地震から3日目の朝です。気仙沼の人たちはテレビも見られず、東北や日本全体がどうなっているのかも分からない状況でした。私は家族や当時の従業員32名の安否を確認するため、各避難所を歩いて回りました」
建物に逃げ込んでいた奥さんは無事でした。しかしお子さんを学校まで迎えに行った女性従業員1名が亡くなりました。工場は全壊し、2億円にのぼるフカヒレの在庫もすべて失いました。
そんな状況でも、石渡商店は再開を急がなければなりませんでした。日本は震災直後でも、中国が牽引するフカヒレ市場は引き続き好調。休んでいては復興が遠ざかります。そんな背景もあって、石渡商店は震災から4カ月後の2011年7月に仮工場での営業を再開しました。
「仮工場は狭かったため小規模の生産しかできませんでしたが、作ったものは順調に売れていきました。ところがその翌年、中国でいわゆる『ぜいたく禁止令』が出て、高級料理に使われるフカヒレの注文が激減しました。この法令により、香港ではフカヒレ業者の4割が廃業されたそうです。当社もフカヒレ頼みでやっていくことのリスクが高まり、フカヒレ以外で新しい柱を作るための新商品開発に着手しました」
決して容易なことではありませんが、石渡商店には新商品開発の土壌がありました。
昭和32年(1957年)創業の石渡商店のルーツは、神奈川県川崎市にあります。大手食品メーカーの研究員だった石渡さんの祖父・正男さんは、フカヒレの中でも小さい部位が捨てられていたことに着目。それを無料で仕入れて横浜中華街に卸していたほか、香港に輸出をする仕事を始めたのだそうです。石渡家はそれを機に川崎から気仙沼に引っ越しましたが、石渡(久師)さんと、現社長である石渡さんの父・正師さんの名前には、昔住んでいた場所の近くにある川崎大師の「師」の文字が使われています。
「祖父は輸出事業で業績を伸ばしていきました。輸出貢献企業として12年連続で表彰されることもありましたが、1971年のドルショックで単に輸出するだけでは厳しくなった。そこで祖父は、缶詰やレトルト製品をつくる技術を習得し、新しい道を模索したのです」
この時を境に、石渡商店の製品群は大きな広がりを見せるようになりました。現在はフカヒレラーメン、フカヒレ小籠包といった中華料理から、フカヒレ茶碗蒸し、フカヒレの天ぷらといった和食向け製品まで、幅広く提供しています。また同社は加工技術でも高い評価を得ており、天皇即位を祝う宮中晩餐会や、田中角栄内閣時代に中国からの来賓を迎えて開かれた晩餐会で出された茶碗蒸しにも、同社のフカヒレが使われたそうです。
研究職出身の初代・正男さんが新商品を考案し、機械関係に詳しい2代目の現社長・正師さんが事業として具現化させていく。同社の礎は、創業者親子の長所を活かしながら築かれていきました。「私には特別そういうものはありません」と謙遜する石渡さんも、テレビショッピングやインターネット通販で業績を伸ばすなど、同社の成長に大きく貢献してきました。そしてフカヒレに続く柱として、2013年7月に市販向けのオイスターソースを誕生させています。
「震災後、私たちはとても多くの方にお世話になりました。新しい工場を建てられたのも、国の補助金やファンドから借りたお金があったおかげ。トラックで各地に営業に回った時も、パネルにいろんな方が応援メッセージを書いてくれました。そうしたことへの恩返しとして、地元のものを使って何か自分たちらしいものを作れないかと考えました。そこで思いついたのがカキです。気仙沼はカキも有名ですが、旬と言われる11月頃よりも、3月から5月に取れる産卵前のカキのほうが栄養たっぷりでおいしいんです。しかも安く手に入る。このカキでオイスターソースを作った結果、1年目はすぐに完売し、翌年以降も生産量が倍々に増えていきました」
石渡さんが開発したオイスターソースは品評会でも1等賞を獲得。全国放送のテレビ番組に取り上げられて話題になることもありました。その時は一日で一年分の注文量となる5万本の注文が入ったとか。
「普通のオイスターソースはカキの味がしません。ところが当社の製品は、ちゃんとカキの味がします。生ガキを酵素分解によって液体化させる特殊な製法で作っているので、カキのエキスが丸ごとソースに入っているんです。お子さんからご高齢の方まで安心して使ってもらえるように、化学調味料を使わないことにもこだわりました」
実は石渡商店では、以前にもオイスターソースを生産していたことがありました。ところがその挑戦は失敗に終わりました。業務用ではシェアを奪うことができなかったのです。初代、二代目の失敗を糧に、石渡さんは三度目の正直ならぬ「三代目の正直」でオイスターソースを成功させました。「ターゲットを業者から消費者に切り替えたのがよかったのでしょう」と石渡さんは分析します。
そんなオイスターソースの生産効率向上に一役買っているのが、水産加工業販路回復取組支援事業の助成金によって導入された機材です。従来はオイスターソースの瓶の蓋を締める際にも、人間が瓶を「巻じめ機」にセットしていましたが、新しく導入した「連続自動真空キャップ巻じめ機」はベルトコンベア式となっており、この工程で人が介在することはなくなりました。
今後の増産に対応すべく、製造中のソースのサブタンクとして移動式サニタリータンクなども導入。貯蔵セラーはソースを一定温度で熟成させるためのもので、今後新たに「熟成版」のオイスターソースを発売する予定もあります。
「この貯蔵セラーを使って、ソースを3年間熟成させます。大学との共同研究により、熟成したソースはアミノ酸が倍増し、さらにおいしくなることも分かっています。高級志向のお客さまに支持していただけるのではないかと思います」
新機材の導入により石渡商店の生産能力は向上しましたが、同社が今後もおいしいオイスターソースを作っていくために必要なのは、生産者から引き続き質の高いカキを仕入れることです。そのために同社は、浜値に関係なく、生産者から一定料金でカキを仕入れているのだそうです。以前、カキの価格が三分の一に暴落した時も、例年通りの価格で購入。浜値と同じ安い価格で買うこともできたのにあえてそうしたのは、このオイスターソースの出発点が『恩返し』だったからです。
「私たちも、困った時に助けてもらって今があります。漁師さんたちにとって、安定した値段で売れることはいいことだと思うので、一定料金で買わせていただいています。そうすることで漁師さんたちも『石渡商店には少しでもいいものを回してあげよう』と思ってくれるので、うちにはいつもいいカキが入ってきます」
オイスターソースに続いて、気仙沼のホタテを原料にしたXO醤も作りました。XO醤では世界一を目指しているといいます。
「XO醤は、ペニンシュラホテルのものが世界一おいしいと言われています。うちは気仙沼の原料で、ペニンシュラホテルよりおいしいものを作る。そうすればおのずと世界一になれますから」
石渡商店で生産されるフカヒレ製品とその他の加工品の割合は、9対1。オイスターソースやXO醤は同社での歴史が浅く、人手もかかるため、生産量を大きく増やすまでには至っていませんが、立派な定番商品になりつつあります。
石渡さんは3人兄弟の長男ですが、親から「継いでくれ」と言われたこともなく、学生時代は体育の先生を目指していました。しかしフカヒレ加工技術の奥深さを考えると、「いずれ継ぐなら若いうちから仕事を覚えたほうがいいのではないか」と思い直し、21歳の頃から工場で働き始めました。その後、震災が起こり、会社の再建にも携わるようになります。
「それまで経営に関することは全く分からなかったんです。銀行からのお金の借り方、貸借対照表の見方、事業計画書の書き方など、こうした機会に学べたのはよかったと思います」
父の正師さんはよく、「おいしく作るのが、(食べ物になる原料への)最高の供養だ」とおっしゃるのだそうです。それは使われていなかったフカヒレの部位を有効活用することでこの商売を始めた祖父からつながっている、石渡商店の精神。石渡さん自身も、その思いを製品づくりに込めています。
「当社は高価格帯のものを多く扱っていますが、高いものがいいものではありません。いいものとは、お客さんにとって使いやすいもの。その値段で納得していただけるものを作り続けていきたい」
学生時代、陸上部の練習が終わってから家に帰ると、父の正師さんは次の日の仕事に備えてもう寝ていました。朝早くに家を出て行く父とはすれ違いの生活。石渡さんはそのことをよく思っていないこともあったといいます。
「今思うと、しっかりやっていたということなんですよね。受け継いできたものをどうやってつないでいくかということも、これからは考えていかないといけませんね」
家では三女の父親でもある石渡さん。「次は女社長もあるかもしれないですね」と、石渡商店の未来に思いを馳せていました。
株式会社石渡商店
〒988-0141宮城県気仙沼市松崎柳沢228-107 自社製品:フカヒレ製品、オイスターソース、XO醤 ほか
※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。