風光明媚という言葉がふさわしい茨城県ひたちなか市・平磯の海の目の前。そこに大喜やの店舗があります。添加物を一切使わない昔ながらの製法で作られる味に惹かれて、平日は地元、週末は近郊から来るお客さんでいつも賑わっています。
「海が目の前にあって、雰囲気が良いからでしょうかね。ご近所の方がちょっとした買い物をする時でも、お一人ではなく家族全員でいらっしゃることが多いんです。散歩にちょうど良いのかもしれません」(大喜や 代表 大内正光さん。以下「 」内同)
商売のベースは、昔も今もあくまで店舗。大内さんは「呑気にやっているんです」と飄々と語ります。でも、ここ平磯は古くから漁業や水産加工で栄えた土地柄。漁業に携わる家庭では、漁の際に傷ついた魚を自宅や近所に持ち帰る「分け魚」という風習があり、四季折々鮮度が良い魚を食べて育った人が多いのです。そんな舌の肥えた地元の人々を満足させてきた商品は自然に噂となり、お客様の要望に応えていくうちに、徐々に販路が広がっていったと言います。
「魚を買い付けに行く市場関係者や、地元のお客さんが評判を広めてくれるのか、問い合わせを多くいただきます。自分としては、そこまで頑張らなくてもいいかなと思っていたのですが、求めてもらえるなら多くのお客さんに食べて欲しいと思うようになりました」
先代の時代は、“扇屋”の名前で魚の仲卸業者を営んでいました。大内さんも若い頃は築地の仲卸に2年半ほど修行に出たそうです。そこから様々な縁が重なり、フィッシュミール工場の職員として10数年勤務していた大内さんですが、50歳の時に一大決心をします。工場を辞め、ずっと念願だった店を始めることにしたのです。
「50歳は人生で最後のチャンスだと思いました。子育ても一段落して、妻も店を手伝える環境だったので迷いはありませんでした。ずっと魚一筋で来た自分の価値観に合っているのは、工場に勤めているより、自然の中で好きなことをすることだと思って。おかげで今は、まったくストレスを感じません(笑)」
大内さんが店を引き継いだ時、店名を“扇屋”から“大喜や”に変更しました。そして、最初に扱った商品は「さんまのみりん干し」。那珂湊の名産でもあるさんまを、ざらめと醬油を煮詰めた特製調味液につけ、天日で乾燥させたものです。このさんまのみりん干しは大内さんが工場勤務をしている時代も、お母さまがずっと作り続けていた商品。その頃は家内工業だったので「添加物を使うような知識はなかった」と大内さんは笑います。調味液の味は原料や季節によって改良を加えていますが、規模が拡大した今も製法自体は昔の伝統を守り続けています。
その後、魚種も加工法も少しずつ増やし現在のラインナップが誕生しました。常に10種類以上の魚種を扱い、新製品も必ず年に1~2点は投入するとのこと。新商品の開発は、大内さんが一手に担います。普段接する顧客の反応に加え、素材の原価や在庫状況等を鑑みながら「どんな製品があったらお客さんに喜ばれつつ、損益分岐点を超えるのか」を真剣に追求。そのため、一度開発を始めたら、途中で投げ出すことはほとんどないと言います。
「大手と違って、自分の店で売るので1回作った商品はずっと置いています。最初に大きく売れた後、必ず1回下火になりますが、じっくり観察していると、どの商品がどんな時期に売れるのか、どのくらい作るのが適量なのか、大体わかってきます。去年はオホーツク産の鮭を買って、塩漬けにしたあと燻製をかけた新製品を作りました」
様々な製品が並ぶ店内。今、一番売れているのは、めかじきの醬油漬け
順風満帆に見える大喜やですが、震災の影響は大きかったそうです。 幸いなことに工場や店舗の被害は大きくありませんでしたが、製品を卸していた市場は那珂湊港に隣接。3メートルもの津波で大打撃を受け、その後の風評被害も重なって、海藻や魚の加工品を卸しても買い手がつかない状況となりました。また当時の販路には、観光客向けのホテルも含まれていました。こちらも風評被害により、観光客が激減。その上、卸だけでなく店舗に来る顧客も減り、直販も伸び悩む事態となったのだそうです。
「あの頃は、地元全体の景気が悪くて・・・。震災以前は市場やホテル向けの卸もやっていましたが、震災以降は、店も閑古鳥が鳴いていたし、生産をしようという気持ち自体がなくなってしまいました。結局、卸は一切やめて、店で出す分だけを細々と作っていました」
近隣地区の那珂魚湊市場は津波の被害を受け、今は交通量の多い交差点も当時は完全に浸水
卸事業からの撤退もあって、売上は3割ほど減少。特に、それまで最大の強みであった「天日干し」という特徴が、原発事故によって風評被害を加速させる要因となってしまったのが痛手だったと語ります。
ようやく復興したと感じられたのは、2~3年程前。近隣にある国営ひたち海浜公園等に観光客が戻り始め、大喜やに来るお客様も徐々に増加。また津波の被害が大きかった那珂湊港も、常に観光バス数台でお客さんが訪れるほどになり卸事業も再開しました。そうして「震災後」の展開を考え始めた時、生産体制を新たに整えるということが必須の課題となっていました。
生産体制を整えるため、今回の支援事業で大喜やが導入したのは、商品を乾燥させるための設備一式と、製品の品質管理に必要な金属探知機や滅菌器など。これらの導入により、より衛生的で安全な製品を製造が出来るようになりました。今までは家内工業に近かったため、製品の評判を聞きつけて様々なバイヤーが商談に来ても、最終的な成約まで結びつかなかったことも多かったそうですが、設備の増強により、広範囲に製品が届けられる基盤が整いました。
「機器の整備により、これまでに増して自信をもって商品をお届けできるようになりました。震災後、これからの展開を考えていた時に支援事業の後押しは非常に心強かった」と大内さん。
また天日干しの魅力は高いものの、自然が相手であるため、天候が変わるたびに500枚ものふのりのセイロを人力で移動させたり、砂埃をかぶってしまったら砂を取り除くなど、余分な作業を強いられることも多かったのだと言います。大喜やは従業員の定着率が高く、現在働いている人は、みな十年以上のベテラン。彼らを単純作業に従事させず、熟練の技術を発揮してもらうためにも支援事業は役立っています。
「天日干しだと魚の旨味や潮の風味が出るし、みりん干しのツヤ、光沢も違うので、これからも天日干しにはこだわっていきます。でもムラになりにくいなど機械ならではの良さもあるので、今後は天日と機械の良い部分を、それぞれ生かして生産をして行きたいです」
熟練した従業員が大喜やの加工を支える。作業台も支援事業で導入したもの
実は大内さん、店を維持するための収益バランスには敏感ですが、「たくさん儲けよう」という意識は今まで低かったのだそう。それは、ゆとりを持った生産工程でないと「どこかにひずみが出る」ことを自覚していたから。そのため大量生産を求められたり、品質維持のために添加物を足してほしいと言う要請があった時も、断ってきました。
「切羽詰ったスケジュールで働いていると、同じことの繰り返ししか出来なくなって、新しい商品を作ってみようかな、とか、季節や原料にあわせて味を変えた方が良さそうだな、という発想も出なくなっちゃうと思うんです。向こうの規格に合わせるより、自分のペースでやりたいと思って、色々言われても今までは“勘弁して”って言ってました」
その大内さんが、販路を拡大しようと決心したのは、震災を機に芽生えた「魚離れ」への強い危機意識です。最初はレストランを計画したそうですが、「この場所だけにとどまらず、より広い範囲に製品を届けたい」という思いから、工場の整備に踏み切りました。添加物を使わない、天日にこだわるなど「良いところ」は継続しつつも、今までは躊躇していたネット販売などにも、今後は可能な限り対応していきたいと語ります。
「魚の一大産地である東北が被災したことで、当時、一般市場やスーパーに三陸産の魚が並ばなくなったでしょう。それがきっかけで、魚離れが進んでいる気がします。それに自然環境の変化で水揚げも減って、那珂湊でも今、かつおの水揚げが無いし、さんまも獲れない。少しでも、多くの人に魚を食べてもらえるなら、もう少し頑張ろうと思っています」
展示会にも積極的に見に行き、色々な知識を吸収している大内さん。取材当日も、新たな問い合わせがあったり、ネット販売のための取材が来たりと大忙しの様子でした。娘さんご夫婦と言う良き継承者にも恵まれている大喜や。地元の文化や環境に軸足を置きながら、地の利を生かした良質な製品を提供する大喜やのような店が続いていくことで、地域の魚文化が守られていくのでしょう。
大喜や
〒311-1203 茨城県ひたちなか市平磯町3551-7 自社製品:さんまみりん干し、さんま開き、さばみりん干し、めかじき醤油づけ等
※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。