宮城県塩竈市で、塩釜水産加工業協同組合(1949年設立)より製造と営業部門を独立させた形で1983年に設立した「株式会社塩釜水産食品」。創業当時から半世紀以上に渡り、鮭を使った製品を作り続けています。
現在の主力商品は、ロシア、カムチャッカ沿岸で漁獲された紅鮭を使った加工品。今でこそ、安定した品質の原料を手に入れることが出来るようになったと言いますが、ここまで来るのに随分と苦労があったそうです。
創業当初は、アラスカ産紅鮭を中心に製造販売を行っていましたが、十数年前原料の高騰が続き、どうしたものかと悩んでいました。その時ふとロシア・カムチャッカ半島湾岸で漁獲される紅鮭を仕入れてみたのです。食べてみたら、脂が多く旨味も強く、この原料に一目ぼれしました」(髙橋幸浩さん、以下「」内同)
しかし、当時は、ロシア現地での原料選別が機能しておらず、紅鮭以外の魚種が入っていたり、鮮度の悪いものが混在していたり、大きさも不揃いで、なかには内臓のみが入っていることもあったそう。
「これではだめだ、せっかくの美味しい紅鮭が台無しになる。そう思った瞬間、“よし、現地に行こう”そう決意しました」
それは1999年、実行に移されました。しかし現地に行ってみると、民族、文化、振る舞い、全てが日本とは違い、このような状況で、日本人の自分たちだけで現地で加工等の指導を行うことに限界を感じました。この経験により、日本人だけでの指導は困難であり、現地の協力企業の力が必要だということが分かったといいます。それから勉強に勉強を重ね、ついに2年後、協力してくれる現地のロシア企業を見つけることが出来たのです。
「まずは協力企業のロシア人パートナーを、1ヶ月当社の工場に連れてきて、ロシアで漁獲された原料がどのような商品となっているのかを実地研修してもらおう。そうすれば、どのような原料からどのような製品ができるのかがわかり、現地の製品づくりの指導者として育てられるのではないか!と考えました」
その後、実地研修を終えたロシア人のパートナーと現地の工場等に行き、改めて生産管理の監督・指導を行いました。これにより、それまで歩留まり率の悪かった工程が、最終製品の規格に合わせた原料の生産が可能になり、ロスなく注文を行うことができるようになったのです。
苦難を乗り越えた結果として塩釜水産食品は、ロシア産紅鮭において初の試みとなるトレーサビリティの確立を成し遂げました。 現在では、同社の4割がトレーサビリティを取れている製品となっており、未だ業界においては、このような試みを行っているところはなく、大きな優位材料となっています。
2011年3月11日、いつも通り作業をしている中で大きな揺れが襲いました。現在の工場から徒歩5分ほどの旧工場は、塩釜湾のすぐそばです。 塩釜湾は、大小多数の島々が浮かぶ松島湾の奥に位置しており、そのおかげで津波の高さが減衰されたため、幸いにも壊滅的な被害は免れました。津波による浸水は、工場外の敷地内のみにとどまったものの、地震の揺れでほぼすべての機器が転倒、外壁も崩れるなどの被害を受けました。そして、ライフラインもストップ。髙橋さんは、当時のことを次のように話します。
「電気もしばらくこないだろうと思ったので、製品が溶けてしまう前に、震災後すぐの3日目には運送屋さんを回りガソリンをかき集め、従業員に連絡を取り、来られる人を呼んで、真っ暗な中、懐中電灯のわずかな灯りを頼りに、冷蔵・冷凍倉庫から製品をすべて出し、トラックに積む作業をしました。箱がくずれてしまった物なども含めて、市場にほぼすべて定価で引き受けてもらえました。当時の恩義は、今もずっと忘れていません。それから、みんなで協力して在庫品の整理や掃除を始めていたため、1週間後に電気が復旧したときには、すぐに工場を稼働することができ、このことは、その後復旧を進めていくための大きな弾みとなりました。冷凍・冷蔵庫は、すでに空っぽになっていたので、その時まだ、復旧のめどが立っていなかった石巻から荷物を引き受けました」
そしてこの経験から気づかされたことがあると髙橋さんは続けます。
「震災後、それまで長く続いていた取引がふいに途絶えてしまったり、また逆に思わぬ取引先から助けていただいたり……。こういった状況の中で相手先との関係の深さについて考えさせられるようになりました。以前は管理職として、営業があげてくる報告を聞くだけの対応でしたが、もっと自ら取引先のことをしっかり見ていかなくてはならないということに気づきました。2つ目は、商品を供給していて、震災当時のように供給が途絶えてしまうと、それを回復するのはむずかしい。社会の動きは早く、どんどん新しい商品、取引先にとって変えられる。だからこそ、何があっても商品を切らしてはいけないという責務と、どんどん変わる社会で、事業のどこに注力して選択していくか、その判断が大切だ、という点です。自分から積極的にどんどん動いていかないと、うまくいくものもだめになってしまうと感じました」
その選択のひとつが、取り扱う魚種をサケ1本に絞ったこと。震災以前は生産の50%近くマスを扱っていましたが、震災の年は原料の高騰もあり、搬入がゼロに。日本全体での販売も縮小したことが中止のきっかけです。
「マスは1尾売りが主体でした。わたしたちが売った商品は旅館で泊り客のお土産や年始の初売りの景品などに使われていたのですね。つまり、売り物ではなくプレゼント用だったわけだから、値段が上がってしまったら他の商品に変えてしまいますよね。また、原料が安くなりましたと言っても、他社の商品に変えられていますからもう売れません。このように、私たちは、自分たちの商品が最終的にどのような形で消費者の皆様に届いているのかを分かっていなかったのです。現在は、その失敗を元に、販売した先にどのようなユーザー様がいらっしゃるのかに注意して、商品作りに反映させています。」
震災後、思うように取り引きを再開できなかった商品や得意先がある一方で、看板商品の“筵巻き山積け”は、「続けてほしい。やめないでほしい」という声が問屋や量販店バイヤーなど多方面から上がったそうです。
“筵むしろ巻き山漬け”とは、室町時代の頃から伝わる塩蔵方法を現代風にアレンジして商品化したもの。保温効果や防腐効果にすぐれた藁で作った筵に塩をすり込んだ紅鮭を並べ、さらにその上に筵をかけ…を繰り返し何層も積み重ね、短いもので3日~4日。長いもので3~4週間漬け込み、熟成させます。そうすることで水分だけが抜け、アミノ酸の数値が上がり、旨味が増します。すべて手作業で行うため、手間暇はかかりますが、身がしっかり引きしまり、旨味成分をぎゅっと閉じ込められます。髙橋さん曰く「うちでしか作れない商品」とのことです。
“機械化のできない手間暇のかかる製法だからこそ、そこに付加価値がある” そこで、同社は支援事業を利用して“筵巻き山漬け”に注力するための環境整備に取り組みます。製造工程以外の機械化できる部分は徹底的に機器を導入し、効率化を図りました。
そのために、今後需要が増える見込みのある切身製造ラインに、「切り身加工室用搬送ローラーコンベア」「搬送カーブコンベア」「深絞り室用搬送ベルトコンベア」「箱詰め・包装テーブル」などの機器を導入。その結果、真空機から箱詰め・包装、結束機まで1つのラインでの作業ができるようになり、1000㎏の生産に、機器導入前は、7名で行っていたのに比べ、導入後は5名で行えるようになりました。
見直しの大きなポイントとなったもう一つが、20名で1時間以上かかっていた工場の清掃。「自動床洗浄機」「食品機械用高圧洗浄機」「洗浄タンク」などを導入した結果、5~6名で30分ほどの時間でできるようになったのです。 「掃除は、製造現場の基本ですが、結構な重労働で時間もかかってしまいます。そこを省人化により浮かせた労働力を生産に回したかったのです」と話す髙橋さん。
また、原料加工室と焼き加工室の区別をつけるため、仕切りカーテンをつけ衛生面に配慮。さらに、人が動く通路、フォークリフトが入る場所などは、床や壁の色分けを行い、安全面、衛生面から従業員が意識しやすいようにするなど、随所にこだわりがあります。
一度徹底的にハード面から効率化を図れば、人や商品が変わっても教育に労力をかけることなく、コストが省けることも設計にこだわった理由のひとつ。こうしたこだわりの一つひとつを「すべてはよい商品をつくるため」と髙橋さんは言います。
「市場や問屋ばかりを見ていて、その先にいる消費者の方々を想像できていなかった」という反省から、現在は量販店バイヤーとの商談にも同席し、実際のお客様の声を直接吸い上げるように努めているそうです。
加えて、同社はバイヤーから『こうした商品がほしい』というリクエストにも、どうしたら応えられるかを柔軟に考えるようにしています。
そうした声を反映させ、高齢化や核家族、さらに1人世帯の増加に合わせ、小分けしたガス充填包装した銀鮭、紅鮭の切身スマートパック、電子レンジで調理できる簡便商品など、既存商品のブラッシュアップや、新商品開発にも意欲的に取り組んでいます。こうしたコツコツとした努力が実り、直近の決算では、売上が震災前のほぼ95%まで回復しました。
「量販店で、100円前後の単価で箱のままレンジで調理できるレトルトカレーを見た時は、衝撃を受けました。今、利便性があたりまえの時代になっていると感じています。消費者の皆様は、魚だけ特別には見てくれませんよね。これまでは、商品の簡便化をはかって包装形態を変えるとその分10円高く買ってね、と営業してきたのですが、それではだめ。そういう発想だと今後勝負していかなくてはいけないコンビニとは競争できないんです。10円高くコストがかかろうが、最終消費者価格が100円と決めたら変えられません。そのために、コストをどこまで下げられるか、中身はサケ以外に何が使えるかなど全体を見て調整していく必要があります。量販店向けに大量に生産するとなると、包装資材もたくさん必要になります。量販店の要望、『簡易的な包装にするのか』『グレードをどこまであげるか』『どうやって陳列したいか』などをよくヒアリングし、精度を高めていかないと不良在庫として資材があまってしまうことにもなります。今後は、フードコーディネーターやデザイナーといった専門スキルを持つ方にも協力を仰ぎ、新商品開発を進めていくつもりです。アッパー層向けの商品、リーズナブルな商品、この2点を今年はなんとしても開発し、売り出していきたいですね」
室町時代から続く伝統製法にこだわった看板商品を妥協なく作りつづける。その一方で、既成概念にとらわれずチャレンジしつづける。水産加工品にこだわらず、世の中の商品を研究し、これまでの姿勢を率直に省みて意識を変えていく。その気力や情熱はどこから生まれてくるのでしょうか?
「鮭については、技術と原料、世の中で一番いいものを提供してきた自負があります。それに……、生かされたことへの恩返しでしょうか。自宅も実家もすべて津波で流されました。この会社だって地震でそのままなくなってもおかしくはなかった。そんなだれもが大変なさなかに助けてもらった恩は、一生かけていい商品を作ることで返す、と誓っています」
商品を愛してくれた人々の想いが導いてくれた復活への道。あの日の出来事を深く胸に刻みながら、塩釜水産食品にしかできない方法でこれからも感謝を伝え続けます。
株式会社 塩釜水産食品
〒985-0001 宮城県塩竈市新浜町3-29-7 自社製品:サケの塩蔵加工品 ほか
※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。