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企業紹介第30回宮城県水野水産株式会社

旅する蒲鉾――塩釜から日本全国、そしてニューヨークへ

日本有数の蒲鉾(かまぼこ)の生産地、宮城県塩竈市で「水野蒲鉾」のブランドを展開する水野水産。同社社長の水野暢大(のぶたけ)さんの名刺には、水産加工会社の経営者としては珍しい肩書きが載っています。

その肩書きとは、「薬剤師・衛生検査技師」。この業界で必要とされるわけではない難しい資格をあえて取ることになったのは、父・水野忠さんが会社を継ぐ“条件”としていたからです。

薬剤師の顔も持つ水野水産社長の水野暢大さん
薬剤師の顔も持つ水野水産社長の水野暢大さん

「父から『この会社を継ぐなら薬剤師の免許を取れ』と言われていたんです。そこで私は薬科大学の衛生薬学部で食品衛生を学び、薬剤師の免許を取りました。当社では私と、私の妻である専務も薬剤師の免許を持っていますが、同業他社で持っている方は聞いたことがありませんね。確かにこの仕事をするための必須資格ではありませんが、薬剤師の免許を持っていた父にはその重要性がよくわかっていたようです。父は食品業界でまだ衛生管理の考えが浸透していなかった時代から、『これからは食品業界でも衛生管理が問われる時代になる』と言っていて、実際その通りになりました」(水野暢大さん、以下同)

消費者の食品衛生への関心が高まっている昨今、食品衛生管理方法を定めたガイドライン、HACCP(ハサップ)の認証を目指す水産加工業者が増えています。水野水産でも2014年に、築40年の第一工場と築10年の第二工場で日本とアメリカのHACCPをそれぞれ取得しました。基準をクリアするには工場設備への投資や従業員への教育が欠かせませんが、古い第一工場でもHACCPを取得できたのは、水野さんに衛生管理の知識があり、徹底した衛生管理を親子で長く維持してきたからなのでしょう。

「父に言われた通り薬剤師の免許を取っておいてよかったと思います。HACCPを取得する際にも、大学で勉強していたことが役に立ちました。工場内の夜間の落下菌の計測なども昔からずっとやっています。アメリカのHACCPも併せて取得したのは、海外展開する上でこれから必要になると考えたからです」

大量生産の時代に「品質勝負」で生き残った

2017年は水野水産にとって、創業80周年の節目の年。創業したのは水野さんの祖父・水野大助さんです。

「祖父がこの会社を始めた頃は、かつおぶし、蒲鉾、ちくわ、冷凍魚など、季節によっていろいろなことをやっていました。昔は塩釜で作ったちくわを貨車で築地まで運んで、塩漬けにしたものが戦地にも送られていたようです」

ところが30年ほど前のことです。大量消費の時代になると、地方にもスーパーマーケットが増え、水産加工業者には「量」が求められました。しかしそれに対応できるのは大手企業だけ。大量生産ができない中小の蒲鉾屋はたちまち苦境に立たされ、塩釜でも店を畳む店が増えたのだそうです。

「私が二十歳の頃、塩釜に100軒余りあった蒲鉾屋も、今残っているのは20軒ちょっと。そのくらい状況が大きく様変わりしました。実は当社も苦しい時期があって、『もうやめようか』という話になりましたが、何もしないまま会社をやめるのは悔しい。そこで『どうしてうちの蒲鉾は売れないんだ?』という話をしていると、その場にいた女性のパート従業員がこう言ったんです。『あの原料で売れるものが作れるわけないでしょう』と。その言葉に触発されて、どうせやめるんなら最後にとことんいい材料を使っていいものを作ってやろうということになりました」

その日から最高の材料を使った新製品の開発が始まりました。3カ月ほど経ってそれらが店に並ぶようになると、水野水産の売り上げはみるみる上がっていったといいます。

「私たちが何とか生き残ることができたのは、大量生産の時代に、あえて品質で勝負したからだと思います。その後も今に至るまで、品質重視の姿勢は変わっていません」

最高品質への追求は原料調達から始まります。水野水産では、揚げ蒲鉾の原料となるスケトウダラのすり身を、アラスカ沖で操業するアメリカの2隻の加工母船から仕入れています。すり身加工の設備を整えた加工母船内では、捕れたその場でスケトウダラを加工し、冷凍保存することができます。港まで運んで陸上の工場で加工するよりも、新鮮な状態ですり身を作れるというわけです。

揚げ蒲鉾に使用する野菜にもこだわっているようです。タマネギ、ゴボウ、ニンジンなどの野菜は時期によって産地を変えて、年間を通しておいしい野菜を調達できるようにしています。

新鮮な油を使っているので油の透明度も高い
新鮮な油を使っているので油の透明度も高い

「調理に使う揚げ油も、オレイン酸の豊富な菜種油を使うことにしました。すると売り上げがさらに伸びました。当社の揚げ蒲鉾はさっぱりとしていて、油っぽくないのが特徴の一つです。味のインパクトはあるけど、それがいつまでも残らずにすっと消える。その秘密はこの油の鮮度にあります。いつでも新鮮な油で揚げられるよう、フライヤーの油を毎日入れ替えているのです。使い終わった油はただ捨てるのではなく、バイオディーゼル燃料として再生し、塩釜の連絡船やバスの燃料に使ってもらっています」

食品にもまだ使える品質の油を再生エネルギーに回していることから、「水野はきれいな油を捨てている」と言われることもあるのだとか。最高の揚げ蒲鉾を作るためにはそこまでする必要があるのでしょう。

活かされた祖父と父のチリ地震津波体験

東日本大震災の地震当日、水野水産の工場には175人もの従業員がいましたが、あらかじめ備えていた防災機器と迅速な判断により、全員が無事に避難しました。

「工場内に緊急地震速報の機材を配置しているので、揺れが来る前にそれを察知しました。とはいえ、立っていられないほどの大揺れです。当社は工場にフライヤーもあるので、火災防止のため震度5以上の揺れがあると照明以外の電気がすべてストップするようになっています。その時も電気が止まりましたが、情報が欲しいので揺れが収まった後に非常用の自家発電機を動かしてテレビを付けました。すると震源地が福島沖という情報が入ってきました」

水野さんの脳裏によぎったのはチリ地震の記憶です。当時まだ3歳だった水野さんは、祖父や父からその話を聞かされていました。

「祖父はあの時、海のにおいで津波が来るとわかったそうです。南側に海がある塩釜は、震源地が南方沖の津波に弱い。地震から15分後の午後3時には、片付けはしなくていいから避難するようにと全員に指示をしました」

従業員たちはそれぞれ工場を後にしましたが、帰れない従業員18人が水野さんとともに第2工場の3階に残りました。工場は天井が高いため、一般的なビルの5階の高さに相当します。

避難から1時間ほど経った午後4時頃。4メートルの津波が「天然の防波堤」とも呼ばれる松島湾の島々を乗り越え、塩釜の町を襲いました。

避難した第2工場3階で「津波があの島を乗り越えてきた」と示す水野さん

避難した第2工場3階で「津波があの島を乗り越えてきた」と示す水野さん

「この地区では地面からの3メートルの高さまで海水に浸かりましたが、当社の工場は周りより1.2メートル高くしているので、実質1.8メートルの浸水で済みました。チリ地震の津波の後に、父が工場の土地を高くしていたのです」

大きな被害には変わりありません。1階部分は水没し、津波が引いた後の敷地内は泥と瓦礫だらけ。しかし父・忠さんが1.2メートル分土地を高くし、天井の高さにも余裕をもたせたことで、2階にあった機材は被災せずに済みました。

1960年のチリ地震の津波の教訓から工場の土地は周囲より高くなっている
1960年のチリ地震の津波の教訓から工場の土地は周囲より高くなっている
工場内で津波の高さを示す水野さん
工場内で津波の高さを示す水野さん

いい原料、いい油は工場を汚さない

「どうです? 水産加工の工場なのに、魚臭さがないでしょう?」

工場を案内しながら、誇らしげにそう話す水野さん。工場内ではすり身のにおいや菜種油の香ばしい香りはするものの、「魚臭さ」というのは確かにありません。

「いい原料、いい油を使っていると工場が汚れないんです。だから異変があった時はにおいですぐにわかります。父からよく言われたものです。食品工場の衛生状態は目で見てもわからないから、鼻でかげ、と。鼻を使えば見えない汚れがわかる。焦げもわかる。特殊な技能ではありませんよ。一週間も気をつけていれば、わかるようになるものです」

工場内ではこの日、すり身から製品の形にする成形機械が稼働していました。生産効率を向上させるため、復興支援事業の助成金によって新しく導入したものです。従来通り手作業で成形するラインと並行して設置されていますが、人間が作ったものと見比べてみても“手作り感”は遜色ありません。

成形機械で形を整えられたすり身は、そのままフライヤーへと運ばれていく
成形機械で形を整えられたすり身は、そのままフライヤーへと運ばれていく

「揚げ蒲鉾の表面が凸凹しているのは、中まで火を通しやすくするためです。作業効率化のために機械を導入しましたが、人間が作ったような手作り感は残しています」

おいしい蒲鉾はどこまでも一人で行く

多くの試練を乗り越えてきた水野さんは、現在のマーケット事情をこう分析しています。

「飽食のこの時代、求められるのは『うまいもの』。付加価値よりもクオリティーの高さだと思います。特に団塊ジュニア世代は製品力が伝わりやすい世代で、食べればいいものだとわかってくれる人たちがたくさんいます。実際に今、コンビニのスイーツもいい原料を使ったものが売れていますよね。アメリカ型資本主義が浸透して地方の商店街は次々に消えてしまいましたが、世界の4大マーケットである東京は健在だし、ネット販売も広がっている。いいものを作っていれば、クオリティーを求める人たちに必ず届くと思っています」

水野さんのその信念を支えているのは、母・エイ子さんから言われた言葉です。
エイ子さんは、「おいしい蒲鉾はどこまでも一人で行くんだよ」と水野さんに教えていたのです。

「日本全国、利尻島や父島などからも注文が来ます。先日はお客さんから、『ニューヨークのマンハッタンのお店に並んでいたよ』と教えてもらいました。母の言う通りですね」

注文が途切れる日はないという水野水産。
今日も塩釜からは、水野さん自慢の蒲鉾が見知らぬ街へと旅立っていきます。

株式会社カネト

水野水産株式会社

〒985-0003 宮城県塩竈市北浜4-4-14
自社製品:揚げ蒲鉾、ちくわ ほか

※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。