「うちの娘ば、ここに入れろ。ほら見ろ、こんなに震えてるだろ」
周りにいるのは威勢のいい男性ばかり。八戸魚市場のイカのセリ会場で唯一の女性参加者だった彼女が萎縮していると、父親がそう言って場所を空けさせたといいます。
「30歳そこそこで初めてせりに参加した私から見れば、50歳を超える人はみんな大御所。そんな人たちに囲まれる中で大声を張り上げないといけないセリが、最初はとても苦手でした。私が買い値を叫んでも競り人まで声が届かないので、父は私のために競り人に一番近い場所を確保してくれました。おかげで私でもどうにか競り落とせていたんです」(五戸睦子さん、以下「」内同)
セリに出始めた頃をそう振り返る五戸水産(青森県八戸市)社長の五戸睦子さん。 父・猛雄さんに頼ってばかりはいられないと、工場から魚市場に向かう車内では発声練習が欠かせませんでした。
「片道5分程度の道のりですが、セリでも大きな声を出せるように『アーイ! ろっぴゃく~!』とハンドルを握りながら甲高い声を上げていました(笑)」
小柄でも紅一点で目立つ存在だった睦子さんには、周囲からある呼び名が付けられていました。その名も「箱入り娘」。当時の魚市場では、停泊する船のすぐそばに魚の入った木箱が並べられており、魚を競り落とした業者はその木箱の上に自社の目印となる札を置いていきました。しかし睦子さんは自分の身長よりも高い木箱の上に手が届かないため、空の箱を足場にしていました。その姿を見た人から「おまえは箱入り娘だな」と言われたのだそうです。
しかし実際の彼女の半生記は、本来の意味の「箱入り娘」とは全く異なるものでした。
水産加工業を営む両親の間に、3人姉妹の長女として生まれた睦子さん。 小学校に入る前から手伝いをするのが好きだった睦子さんは、中学生になる頃には会社の帳簿をつけていたといいます。正式に従業員として五戸水産で働くようになったのは二十歳から。その後一般企業に勤める夫と結婚し、3人の子宝に恵まれた睦子さんですが、母になってからもこの仕事を続けました。
「3人の子供はみんな女の子で、2代続けての三姉妹です。父は私がやりたいことには何でもチャレンジさせてくれました。当時ソフトダルマやあたり等の一次加工品しか作っていなかった五戸水産で、煮物・焼物など二次加工品の製造をやらせてもらえたのです。しばらくして加工業が軌道に乗ってくると、父は『お前に引導渡す。お前が社長をやれ。俺がしっかりしているうちに引き継ぐから』と言いました。私は『やだよ。元気なうちはお父さんが社長やってよ』と返しました。病気の兆候のようなものは何もなくて、まだまだ元気でいてくれると思っていました」
その日は突然訪れました。今から10年ほど前のある朝、事務所で仕事の段取りをしていた猛雄さんは、睦子さんに「そこの電話番号を教えてくれ」と言いながら倒れてしまったのです。その11日後、猛雄さんは息を引き取りました。
「『俺はころっと死ぬからな。お前たちに迷惑かけなかったって爺に言うからな』と言っていた父らしい最期でした。」
1938年(昭和13年)創業の五戸水産の歴史は、家族の歴史でもあります。睦子さんの祖父で、カツオ・マグロ船の漁師だった源三郎さんが船を降り、八戸港に水揚げされる魚の加工をするようになったのがその始まりです。
源三郎さんの9人の子供(男3人、女6人)のうち、次男として生まれたのが睦子さんの父である猛雄さんでした。その上には長男がいましたが、幼くしてこの世を去ってしまったそうです。
「兄を亡くした父はまだ3歳でしたが、『おんず(※この地方で『次男』の意)、頼むよ』と言われた記憶があるそうです。やがて父はこの会社を継ぎ、弟の勇雄さんは東京・築地の水産関連の会社に就職しました。築地で今どんなものが売れているか、八戸の父に教えてくれていたといいます」
築地と八戸、遠く離れていても兄弟は支え合いながら生きてきました。しかし勇雄さんは、36歳という若さで亡くなってしまいました。
「叔父が亡くなると、『五戸水産も終わりだな』と言われるくらいの影響力がありました。そしてこの地区で困ったのはうちだけではありませんでした。叔父は東京に行っても、地元の会社によく発注をしていたようなんです」
しかし勇雄さんは無形の遺産を残していました。勇雄さんにお世話になった人たちが、五戸水産を助けてくれることもあるのです。
「叔父が働いていた会社の方が、今でも私たちに助言してくれます。それまで干していただけのイカの軟骨を、『これ、焼いたみたらどう?』と言うので試しに焼いてみたところ評判がよかった。それが結局、商品化にもつながりました」
2011年の東日本大震災では、五戸水産の工場にも津波が押し寄せてきました。しかしここでも睦子さんは家族の“遺産”によって助けられます。
「津波が来ると聞いて、従業員を帰し、私は家族と外国人実習生と一緒に近くの三嶋神社に避難しました。翌日になると水は引いていましたが、私は自分で工場を見に行く勇気がなかったので代わりに夫に様子を見てきてもらいました。『周りよりは被害は小さいからこっちに来てみろ』と夫が言うので行ってみたところ、確かにうちの被害は周りの工場ほどではありませんでした。1960年のチリ地震の津波被害に遭った後に祖父が工場の土地を少し高くしていたからなんです」
五戸水産の工場1階は目の前の道路よりも70~80センチ高くなっているため、浸水は50センチ程度で済みました。無事に残った機材や原料も多く、五戸水産は焼きイカ700パックを避難所に寄付しました。
「うちは工場の後片付けも1日で終わりました。田植えシーズン前の農家の親戚10人ほどが農具を持ってやって来て、1階の泥を全部かき出してくれたんです。電気や水道などの復旧も早かったので、震災翌週には工場も再開していましたよ」
恵まれることの多かった五戸水産ですが、トラックやフォークリフト、井戸のモーターなどがすべて使えなくなるなど、決して被害が小さかったわけではありません。工場を元に戻すため、そして新しい販路の開拓のためにも、新機材の導入が必要になりました。
男性の多い水産加工業界においては珍しく女性が社長を務める五戸水産ですが、従業員も36人中31人が女性。事務所には女性しかいないことも多く、訪問客から「男の人を出してください」と言われることもあるのだとか。
「『どうして?』と思っちゃいますけどね(笑)。重労働のイメージが濃い業界ですが、今は機械化が進んでいるので力仕事も減っていて、むしろ細かい作業のほうが多いくらいなんです。うちも機械が増えてきて一つ一つの作業は昔よりも楽になっています」
イカを焼くスチームコンベクションやイカ裂き機など、被災後の五戸水産は次々に新機材を導入しました。それによって作られた商品の中には、大手コンビニに並んだものもあります。
平成27年度の復興支援事業による助成金を受けた際にも、多くの新機材を導入しました。ポータブル塩分計や糖度計、金属検出機など品質管理に役立つ機器は品質管理には欠かせません。取引先の担当者から「これはいい機材を入れましたね」と褒められ、そのまま商談が成立することもあったそうです。 助成金ではさらに、古くなった乾燥機バーナーも交換。これにより乾燥室の熱効率が飛躍的に向上し、ガス代が大幅に下がりました。また新しいバーナーでは、干物の味が良くなるといわれる短時間での乾燥も可能になりました。
ところが、コスト競争力が高まったと喜ぶ五戸水産を、今度はイカの高騰が直撃します。「さすがに今は手が出せない」という睦子さんは、新たなチャレンジを始めました。
イカ高騰への対抗手段として、睦子さんは今、イカ以外の干物製品の開発を進めています。
「従来はイカが中心でしたが、今後は他の魚種でも干物を作ろうと思っています。すでに始めているのが西海岸(深浦)で獲れるハタハタです。乾燥させて粉末にすると粉末だしになるんです」
魚介類だけではありません。青森県産の農作物を乾燥させる新たな試みも始めています。
「イカの高騰を受けて、青森県が異業種コラボの場を作ってくれたんです。農作物を乾燥させることで、サプリメントや天然着色料、県産人参を乾燥した「だし人参用」としての加工等を始めました。 今後は、いろいろなことを試してみたいですね」
やろうと思えば何でもできる――。そう教えてくれたのは、母の初江さんでした。今も五戸水産の作業場で働く初江さんは五戸水産の生き字引。昔はサバやタラ、ホタテを干していたことを睦子さんに教え、「イカ以外の魚種でもやっていける」と指南したのです。
「長女が男の子を出産したんです。五戸家で男の子が生まれたのは叔父以来78年ぶりなんですよ」
気づけば孫を持つ身になった箱入り娘。彼女が奮闘する背景には、これまでも、そしてこれからも家族の物語があります。
五戸水産株式会社
〒31-0822 青森県八戸市白銀町三島下24-103 自社製品:八戸産するめ、真いか一夜干し、いか佃煮、いかあられ、いかそぼろ肉みそ ほか
※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。