「ポン酢で食べるのがおすすめですよ。どうです? ほやを食べた後に水を飲んでみてください。ものすごくおいしく感じますから」
そう言って、キマル木村商店(宮城県石巻市)社長、木村旬壱さんは、ほやを食べる機会が少ない取材スタッフにほやを試食させてくれました。
今朝水揚げされたばかりという、磯の香り漂うほや。 プリっとした柔らかい食感は、養殖モノならではの歯ごたえなのだそうです。独特の苦味があってお酒のおつまみとしても最高ということですが、ここはすすめられた通り、水をひと飲み。
「 甘い! 」 思わず口にしてしまうほど、いつも飲んでいる水が甘く感じられました。
祖父母が創業したキマル木村商店は、木村さんで三代目。 同社は現在、かき、ほたてなどをメインとして、しゃこ、わかめなど、多様な海産物を扱っています。 取材当日は、旬を迎えたほやの加工が最盛期を迎え、鮮やかな黄色のむき身が次々にパック詰めされていました。このほやは創業当時から取り扱っており、かれこれ60年以上にも及ぶといいます。
ほやは「ほや貝」とも呼ばれるが、実は貝類ではなく原索動物の一種で、東北や北海道の太平洋沿岸を中心に古くから食用として親しまれる
「水揚げされた状態のほやは、磯のにおいを強烈に発するので、一般の流通に乗りにくい海産物です。 東北や北海道の主要消費地以外では、食べたことがないという人も多いかもしれません。ただ、私の祖母が30年ほど前に開発したほやの加工品は大ヒットして、今でも全国から注文をいただいています」 (木村社長・以下「」内同)
その加工品とは、同社の目玉商品である「ほやのしそ風味」。
ロングセラーとなっている「ほやのしそ風味」
東日本大震災の影響から、宮城のほやが壊滅的ダメージを負い、製造中止を余儀なくされていたが、 各方面からのたくさんのリクエストを受け復活することができたそう
細切りにしたほやを、みりんと塩をベースにした調味液としその葉で味付けします。ほやに味付けをした商品は今では珍しくなくなっていますが、木村さんによればその元祖はこの「ほやのしそ風味」なのだとか。販売当初は競合する商品もなく、注文が殺到。一日1万パックの注文を受けることもあり、東北や北海道には、あっという間に広がったのだそうです。
木村さんが生まれた頃には、祖父母、両親、そして親戚までも水産業に従事していた木村家。 食卓はいつも、海の幸であふれていました。
「身内も集まる賑やかな食卓で、朝からかつおの刺身や焼き魚等がたくさん並でいました。一家でこういう仕事をしているので、普通なら手に入らないものが出されることもありました。サメに噛まれたまぐろのトロやホシ(心臓)。今は高級食材ですが当時は捨てられていたまだらの白子。やなぎがれいや、きんき(きちじ)といった揚げ物を、高級魚とは知らずまるまる一匹分食べていたこともありました。私は子供だったので、魚よりもハンバーグのほうが食べたかったんですけどね……」
祖父母と両親の背中を見ながら育った木村さんが家業を継ぐのは自然の流れでした。この世界に初めて足を踏み入れたのは15歳の時。木村さんは祖母からこんな言葉をかけられて、市場のセリに立ったのです。
「まずは魚の買い方を覚えろ。自分で買って、自分で売ってこい」
木村さんは鑑札の付いた帽子を被り、市場のセリに立ちました。買うのは比較的簡単だったといいます。
「中央卸売市場と違って、石巻のような産地の市場というのは、セリ人の権限が強いんです。落とすも落とさないもセリ人のさじ加減みたいなところがあります。当時の石巻は、若い人を育てるような風潮があったので、私みたいな若者には簡単に落としてくれました」
今度は「売る」。 木村さんは自分がセリで落とした魚を、知り合いの家に売りに行ったり、行商を営む知人と一緒に売り歩いたりしました。同じ魚でも売れるエリアと売れないエリアがある。地域によってニーズが異なることを、その時に学んだそうです。
キマル木村商店が多様な海産物を扱っているのは、木村さんが少年時代に「売る」ということを身をもって知ったからかもしれません。
2011年3月11日の地震発生当時、木村さんは車で気仙沼市に向かっているところでした。
「半分くらいまで行ったところだったでしょうか。三陸自動車道を走っていると、ものすごい揺れがあって、テレビを見たらただごとじゃないということがわかったんです。すぐに会社に電話をして『全員着の身着のまま裏山に逃げろ』と指示しました。私は来た道を折り返して、ガタガタになった道路を時折ジャンプしながら石巻に戻りました。裏山の中学校で全員と合流しましたが、街がだんだんと水没していくのをただ見守ることしかできませんでした。この地区は入江の関係で津波が直接襲ってきたというより、どこかを経由して流れてきた海水で冠水したという感じ。中学校で二晩過ごした後、3日目に工場の様子を見に行きましたが、1階部分は海水に浸かり、2階部分は物が散乱していて足の踏み場もないほどでした」
周辺の建物の多くは大規模半壊。キマル木村商店の工場と事務所は、外壁にヒビが入ったものの母屋の鉄骨と土間は残り、一部損壊にとどまりました。しかし実質的には壊滅状態。使えるものは何も残っていませんでした。
「それでも電気とネットはつながっていたので、震災後しばらくはボランティアの方たちに開放して、作業の拠点として使ってもらっていました。私たちは年内には営業を再開していましたが、最初はかきの販売だけ。ほやは種から成長するのに2~3年かかるので、すぐには再開できませんでした」
震災から5年が経った現在も、キマル木村商店の売り上げはまだ5割の回復にとどまるのだそうです。建物の一部損壊どまりで済んだことが、思わぬ形で後の復旧の足かせとなっていました。
「実は全壊したところよりも、私たちのように一部損壊のほうが復旧に時間がかかってしまうケースが少なくなかったようです。被害状況の精査をする行政の手続きに2年ほどもかかってしまいました。しかもうちの場合は、行政が敷地横の用水路からポンプで水をどんどん引っ張っていった時に、土も一緒に持って行かれてしまい、建物のひび割れがどんどん大きくなっていきました。この補修にも相当な費用と時間がかかりました」
昨年、ようやく復旧工事が完了し、現在は新しい看板も設置されたキマル木村商店。しかし気にかけていることがありました。ほや漁師のことです。
「ほやの漁師さんが、今とても困っているんです。ほやは主に韓国に輸出していたのですが、それが原発事故の影響で規制されてしまっている。おまけに、かきなどに比べてほやの養殖はコストが低いので、最近はほやを始める人が増えて競争も激しくなっています。私たちが祖父母の代からほやの販売をしてこられたのは、漁師さんたちのおかげでもあります。私たちはほやの供給の面で、漁師さんたちの助けになればと思っています」
差別化を図るため、木村さんは生のほやを冬も販売できるようにしました。通常、冬期はほやの水揚げをしていませんが、木村さんは冬でも生のほやを食べたいというニーズに応えるため、漁師に頼んで水揚げ時期をずらしてもらったのです。
キマル木村商店の売り上げ順でいうと、単価が安いほやは、ほたて、かき、なまこの次になります。それでもほやに情熱を注ぐのには、そんな思いがあったからでした。
今後は販路の開拓が鍵になるという木村さん。 「ほやのしそ風味」を生み出した祖母の血が騒ぐのでしょうか。新商品の開発を率先して進めています。
「震災前の状態に戻るのを待っていてもしょうがありません。今はいかにアイテムを増やすかということでアイデアを練っていますが、ただ数を増やすのではなく、販路を広げることが大事。そのためには駅や空港、売店にも置いてもらいやすい、常温保存できる商品の開発が重要だと考えています」
現在、商品化の一歩手前まで進んでいるのは、常温保存のできる「かきのアヒージョ(オリーブオイル煮)」。味はもうほとんど出来上がってきて、あとは料金設定やパッケージなどを詰めていく段階です。
「フェイスブックでは、おすすめ商品の紹介だけでなくレシピの紹介もしています。おいしい食べ方を自分で考えたり、スタッフに教えてもらったり。同じ石巻でもいろいろな食べ方があるので、いつも新しい発見がありますよ。皆さんにも試してもらって、海の幸を楽しんでもらいたいですね」
祖父母たちに囲まれた温かい食卓をイメージしながら、木村さんは新しいアイデアを考え続けます。
有限会社キマル木村商店
〒986-2103 宮城県石巻市流留二番囲61-3 自社製品:宮城県産純生むきほや、ほやのしそ風味、宮城県産浜ゆでしゃこ、ほか
※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。