魚の養殖にはエサが欠かせません。その原料は魚粉、小麦粉、魚油など。それらの原料を混ぜ合わせ、粒状のペレットに加工することで、魚のエサとなります。
宮城県石巻市の太協(たいきょう)物産は、1951年(昭和26年)の設立以降、配合飼料の原料となる魚粉づくりを手掛け、東北・関東地方の養殖産業を支えてきました。一般的に魚粉づくりの業者は、つくった魚粉を配合飼料の製造業者に原料として販売しますが、太協物産では自社工場で最終製品となる配合飼料の製造まで行っています。
太協物産社長の宇壽山(うじやま)純一さんは、同社のこれまでの経緯をこう語ります。
「創業者は私の父・新喜治(しんきち)です。戦争から帰ってきた父は、私の母の実家が営む製氷工場の手伝いをしながら、販売先である水産加工場から集めた魚粕(肥料用)を業者に卸す仕事を開始。1955年ごろからは自社で残渣から魚粉をつくり始めました。」(宇壽山純一さん、以下「」内同)
宇壽山さんは大学を卒業してすぐの1973年から、太協物産へ入社。そして働き始めて10年が経ったころ、お父様が亡くなったことで2代目の社長に就任します。
「私が会社を継いだ後、1992年をピークに、主原料であるイワシの水揚げが減りました。それ以前から200海里水域制限の影響もあって原料の調達は不安定でしたが、そんな中でどうすればいいかと考えて、他社から買った魚粉を自社のものとブレンドすることで生産量を増やしました。しかしそれだと、売上高が上がっても利益が出ない。そこで1996年から、水産用の配合飼料の製造を始めました」
当初は大手メーカーと合同で水産用の配合飼料をつくっていましたが、2000年には自社工場も完成し、現在に至るまで同社の主力事業となっています。
太協物産では、配合飼料の製造と並行して、養殖銀ザケに関連する事業も行っています。養殖銀ザケは全国でも宮城県が圧倒的な生産量を誇る産業。この地場産業の成長とともに銀ザケ事業も発展してきました。
「サケというのは、卵、稚魚、成魚といった成長段階ごとに、手掛ける業者が異なります。うちがつくる配合飼料の成分やペレットの大きさも、サケの成長段階ごとに変えています。小さいうちはタンパク質多めの飼料。大きくなるにつれ、だんだんカロリーも高めにしています」
各業者に販売しているのは、それぞれサケの成長段階に合わせた配合飼料ですが、それだけではありません。成魚の業者からは、『いい稚魚が欲しい』。稚魚の業者からは『いい卵が欲しい』。そんなリクエストがあるといいます。
「うちはエサ屋ですが、エサを売りながら、卵や稚魚の仕入れ、販売も行っています。サケの養殖業界ではこのように、エサ屋がサケの生育全体を見る立場にあり、養殖業者をまとめてグループを形成しています。ただ、うち以外は大手が手掛けています。中小の規模で魚粉から配合飼料までつくり、養殖業者とグループを形成しているのは、たぶん全国でもうちだけじゃないかと思います」
取引のある養殖業者とともに太協グループを形成している太協物産。従業員20人あまりの規模ながら、いわばサケ養殖の総合商社として、長年築いてきた信頼と実績があります。
東日本大震災当日、宇壽山さんは石巻魚市場買受人協同組合の役員会に出席していましたが、地震があったため、すぐに工場に戻りました。
「ラジオからは6メートルの津波が来ると聞こえてきましたが、それが10メートルに訂正されました。『全員、今すぐ退避しろ』と指示を出し、私も徒歩で山に向かいました。途中にある自宅で娘と合流し、娘婿の専務(久保田昌史さん)が赤ん坊の孫を抱いて4人で避難しました」
1時間後に押し寄せた大津波で、宇壽山さんは工場と自宅を全壊で失いました。
街が津波にのまれる様子を高台から見ていた一行は、その後、4キロの山道を2時間ほど歩き、神社の社務所に到着。そこには、150人ほどの人たちが避難していました。
「運動不足だったので、足がつってひっくり返りましたが、専務に助けられながら何とか到着しました。その日は雪も降ってとても寒かったのですが、ストーブが2台あったので暖を取れました。米が60キロ分ありましたが、公的避難所ではないので、いつ救援物資が届くかもわからない。最初は1家族につき、せんべいとおにぎりを1個ずつ分けて、自衛隊が到着するまでの1週間を何とかしのぎました。結局そこで一月半、寝泊まりしました」
社務所では避難所運営の幹事を買って出た宇壽山さんですが、それと並行して従業員や取引先の安否確認も急がなければなりませんでした。
「社務所には、たまたま山形から薬の営業で訪れていた男性がいました。彼は、『車のキーを預けますので使ってください』と言い残し、山形に帰っていきました。その言葉に甘えて車を使わせてもらい、従業員の安否確認や、復旧作業を進めました」
迅速に避難を指示したこともあって、従業員は全員無事でした。一方、当時水産加工業者らの間で懸念となっていたのが、石巻市内にある推定5万トンの冷凍魚です。放置していれば、いずれ腐ってしまう。そこで関係者らとともに県と話し合い、海洋投棄をすることに。3月は例年ならサケの売上がピークとなる月ですが、宇壽山さんは、その作業を取りまとめる仕事にも追われました。
「毎日200人から300人を募集して、うちの従業員にも手伝ってもらいました。魚を投棄する前に、梱包しているダンボールやビニールを分別しなければならないので、膨大な作業量でした」
復旧作業がひと段落した後、宇壽山さんは事業を再開します。しかし工場は全壊していたため、同業者から原料を仕入れ、それを販売するだけの仕事にとどまりました。それでもグループ補助金を活用したことで、1年7カ月後の2012年10月に新しい工場が完成。翌年2月には事務所の建物も完成し、この周辺では比較的早期に震災前と同じ生産能力を取り戻しました。
しかしその後、売上はなかなか回復しませんでした。廃業した養殖業者が多かったため、取引量、販売額が大きく落ち込んでしまったのです。また、原発事故の影響によって魚の水揚げ量が減り、原料の調達も安定しませんでした。現在は震災前の8割程度まで回復していますが、そこからどう伸ばしていくかが課題となっています。
宇壽山さんは、新規取引先を開拓するため、これまでの設備ではつくれなかった稚魚用の小さなペレットがつくれないかと考えました。そこで販路回復取組支援事業の助成金を活用し、新しい機材を導入しました。
「従来の設備では、卵からふ化したばかりの小さな稚魚が食べる小さいエサはつくれませんでした。しかし新しい機材を導入したことで、1ミリから14ミリまでのペレットがつくれるようになり、稚魚から成魚まで一貫したエサづくりが可能となりました」
小さいペレットの製造が可能になったことで、卵から稚魚、成魚まで一貫した飼料づくりが、自社の工場内で完結するようになりました。すでに販売を開始しており、取引先からの評判もよいようです。
「天然のサケは成魚になるのに7年かかります。一方で、養殖の銀ザケは1年半しかかからない。それだけ、生育に占めるエサの割合が高いということです。エサによって肉質、味にも違いが出てくる。エサのほうからおいしい魚をつくることできるので、ただエサをつくるのではなく、いい稚魚、成魚づくりにもチャレンジしていきたいですね」
エサを通じて新しい取り組みを試みる宇壽山さんですが、今後、会社の規模を大きくすることは考えていないようです。
「大事なのはバランスですから。加工や販売もできたらとは思いますが、自分たちができる範囲でやっていきたい」
宇壽山さんがこう述べる背景には、太協物産の過去の経験があるためです。日本の漁業が盛んだった1970年代ごろ、周辺の水産加工業者は大規模な工場を建てるなどして事業を大きくしていきましたが、太協物産には大きな工場を建てる資金がありませんでした。宇壽山さんいわく、それが幸いしたといいます。
「規模を大きくした会社は、魚が取れない時代になってから大打撃を受けました。うちはずっと小規模でやっているので、その傷は小さかった。むしろ、メインの飼料づくり以外にも、水産物の加工や販売などをほそぼそとやっていたこともあるので、製造だけでなく、『仕入れて売る』という販売もできるメーカーとして生き残ることができました」
消費者に近いところで商売をしたいという考えは、先代の頃から常にあったようです。
「畜産業界ではブランド牛などがありますが、水産業界もいずれはブランドの魚が生まれるようになるんじゃないかな、と思っています。そのときに、エサの影響力は間違いなく大きい。この業界は『魚を早く大きくする』ということを目指してきましたが、おいしい魚になるようなエサの開発を進めていけたらなと思います」
社長になったばかりの頃はまだ30代の前半。「何をすればいいのかわからず、今日はどこに飲みに行こうか」と考えていたと冗談交じりに話す宇壽山さん。それでもここまでやってこられたのは、そんな楽天的な性格と、「俺は逃げられない」という覚悟があったから。自然体の2代目は、「これからも関係者がそこそこハッピーならいいや」と笑いながら、そう話すのでした。
太協物産株式会社
〒986-0022 宮城県石巻市魚町1-11-3 自社製品:魚粉、魚油、水産用配合飼料、畜産用飼料ほか
※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。