販路回復 ・ 助成事業 ・ アドバイザーについて、
まずはお気軽にご相談ください
ご相談のお申し込みはこちら
企業紹介第138回福島県有限会社海宝水産

浪江町からいわき市に。
避難中に瓦屋も経験した魚職人の思い

「水産の仕事はもうできないと思っていました。浪江町の家も工場も流されてしまいました」(有限会社海宝水産 常務 島信幸さん、以下「」内同)

浪江町からいわき市に避難してきた島さん

原発事故の影響で、浪江町は町内全域に避難指示が出されました(2017年3月に一部解除)。有限会社海宝水産の常務、島信幸さんとそのご家族は、震災後の生活拠点として同じ福島県内のいわき市を選びました。会社の本社住所は福島県双葉郡浪江町に残したまま、新しい工場の建設もいわき市に。以前に近い形で仕事を再開していますが、ここまで来るのには長い時間がかかったようです。

「福島の港は震災後しばらくの間、水揚げが止まっていました。仕事ができないので、私は1年ほど、瓦屋さんで働いていたこともあります。試験操業が始まってから徐々に水揚げされる魚種が増えていきました。2014年に私も市場のスペースを間借りして水産の仕事を再開しました。今の工場が建ったのは2017年のことです」

島さんは、海宝水産の社長である父・強さんから工場の運営を任されています。工場内にはタコのボイル加工用の機材、サケのフィレ加工用の機械、干物加工用の小型冷風乾燥機などもありますが、原料の確保が難しかったり、試行段階であるため、まだフル稼働はしていません。そのため現在は売上全体の7割から8割ほどを鮮魚の出荷が占めています。

氷の大きさが変わっただけでも品質保持力には歴然の差

県内の水揚げが徐々に多くなるにつれて注文も増えてきましたが、島さんはある悩みを抱えていました。

もともと使っていた製氷機で作られる氷は大きいため、氷を箱に敷き詰めてその上に魚を乗せたとき、氷の角で魚の表面を傷つけてしまうことがありました。また夏場は氷が解けやすい。そのため、魚の価値が低く見られたり、品質劣化の心配があったため、注文が入っても断らざるを得ないことがありました」

そこで島さんは販路回復取組支援事業の助成金を活用し、新しい製氷機を導入。これによりフレーク状の粒の小さな氷を作ることができるようになりました。これを従来の製氷機で作った氷と混合して使うことで敷き詰めた氷の表面が、角がなく平らになったほか、氷と氷の間の隙間が埋まったことで解けにくくなったのです。

細かい粒状の氷が作れるようになり、保冷効果が改善された

「箱詰めした際の魚の見た目も美しくなりました。魚も傷つきにくい。一箱に詰める氷の量を減らせた分、多く魚を箱詰めできるようにもなりました。資材や運賃のコストダウンにもつながっています」

震災前に比べて8割ほどの回復状況だという島さん。このままいけば震災前を上回ることも期待できましたが、新型コロナウイルス感染症の拡大により状況が一変。外食や旅館で使われる一級品の魚種の注文が鈍くなったといいます。

「高いものは要らないから、安いものを送ってほしいと言われます。単価が上がらないうちは、震災前の売上まで回復させることがなかなか厳しいですね」

福島近海で取れた伊勢エビも出荷を待っている
幻のカニと呼ばれるドウマンガニも高級食材

トラックを乗り捨てて津波から避難

震災から10年近くが経った今(取材当時)も、当時の光景は島さんの脳裏に強烈に焼き付いています。

「震災当日、請戸漁港で見たこともないくらい大量のカレイが揚がっていました。どれも大きなものばかりで、仲買さんもさばき切れないほどでした。地震が起きた時、私は工場にいました。活魚を入れている水槽の水があふれ出て、地面には亀裂が入り、サイドブレーキをひいていたトラックは5メートルほど移動しました。従業員には海沿いの道を通らずに山から帰るようにと指示をして全員を帰し、私はその後にシャッターを下ろしてからトラックで非難しました。遠くでは煙が立っているのが見えました。家が崩れていたのです。防災放送はありませんでした。たぶん壊れていたんでしょう」

一方、妻の利恵子さんと娘の友希子さんは、島さんよりも少し前に工場から乗用車に乗って避難していました。途中、地盤沈下により橋が走行困難になっており、危険を覚悟して橋を渡る人もいましたが、利恵子さんと友希子さんは躊躇していました。

「ちょうど橋の目の前にある神社の方が、『うちの庭を通れば向こう側の道に出られる』と言ってくださったので、妻と娘はその庭を通らせてもらいました。私自身はトラックが立ち往生してしまったため、トラックを乗り捨てて走って逃げました」

津波に流されることも覚悟していた島さんでしたが、間一髪のところで先に進んでいた利恵子さんと合流し、浪江町の体育館に避難しました。

「翌朝6時に、原発が危ないから逃げろと言われました。私はいったん工場に戻りましたが、津波で跡形もなくなっていて、海水を組み上げるポンプと重い鉄くずだけが残っていました。津波で流されたという人が歩いていたので救助をした後、私たちは福島の親戚の家に向かいました。そこで20日間ほど過ごしたのち、妻の出身地でもあるいわき市に移ったのです」

海宝水産の名前を後世に残したい

津波が引いてから工場に戻った時に、島さんはそこでは何も見つけられませんでしたが、トラックを乗り捨てた神社で見覚えのあるものを見つけました。事務所の机が一つ、そこに流れ着いていたのです。引き出しの中には、会社の通帳と実印、社印が入っていました。

「乗り捨てたトラックも津波で遠くに流されたのかと思ったら、ちょうど神社の建物の屋根の下に収まるように停まっていました。まわりは木もうっそうと茂っているので、どのようにしてそこに停まったのかはわかりませんが、『この仕事を続けろ』と言われたような気がしました」

当時の実印と社印、そしてトラックに載せていた活魚用の大きな水槽は、今も大事に使い続けています。浪江町に戻る目処はまだ立っていませんが、当面は現在の場所で水産の仕事を続けます。

「試験操業でなく、早く元通りの水揚げ量に戻ってほしいですね。いろいろな魚を獲ってもらえれば、私たちもできることが増える。サケのフィレの仕事はまたやりたい。カットする専用の機械もあるのにほとんど使われていないんです」

海宝水産の社名の由来は、漁師でもある父の漁船、海宝丸です。海宝丸は津波で破壊されました。海宝水産の事務所には、父を元気づけようと島さんが自作した海宝丸の模型が飾られています。

荒々しい波の中を進む海宝丸

この模型は父にプレゼントするつもりでしたが、島さんはそうしませんでした。海宝丸は、再び建造されたのです。

「父が結局新しい船をつくったので、模型はあげないことにしました(笑)。でも私は父がつくったこの会社の名前を、ずっと残していけたらと思っています。海宝水産は私で2代目ですが、娘婿が3代目をやりたいと言っているので、『3代目からは老舗だぞ』と言って今ちょうど鍛えているところです(笑)」

3代、4代、そしてさらにその先まで。場所は変わっても、海宝水産を次世代へとつなぐ思いはこれからも変わりません。

島さんと妻の利恵子さん。
海宝水産の歴史はこれからも続いていく

有限会社海宝水産

〒979-0201 福島県いわき市四倉町5-218-1(いわき営業所)

※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。