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企業紹介第114回福島県丸源水産食品

ごまかすな――
職人気質の父からつないだ「縄文干し」の味

地元で取れた新鮮な「常磐もの」の魚を下処理し、独自の調味液に漬け込んで氷温熟成。一晩寝かせた魚を洗浄した後、今度は日陰で扇風機の風を当てながらじっくりと干しあげ、下処理から完成するまでに3日間ほどかかります。これが丸源水産食品(福島県いわき市)こだわりの「縄文干し」の製法です。通常の干物よりも手間はかかるそうですが、味のほうはどうなのでしょう?

創業者の孫にあたる丸源水産食品店主の佐藤幹一郎さん
創業者の孫にあたる丸源水産食品店主の
佐藤幹一郎さん

「時間をかけている分、旨味が凝縮されています。普通の干物に比べて魚のにおいが少なく、焼くといい臭いがするので、お子さんや魚が苦手な方でもおいしく食べられるとご好評をいただいています。解凍後に水が出にくく、焼いても身が小さくなりにくいのが特徴です」(丸源水産食品店主の佐藤幹一郎さん、以下「」内同)

1936(昭和11)年、練り物加工から始まった丸源水産食品(創業当時の名前は丸源商店)。練り物にプラスする形で干物づくりを始めましたが、現在は干物づくりに特化しています。練り物は仙台や東京、名古屋などにも出荷するほど盛況でしたが、大手メーカーが練り物に参入した頃から、売り上げが下がり始めたのだそうです。当時の社長、佐藤さんの父・勝彦さんは、その時ある決断をしました。

「私が高校生だった1986(昭和61)年に、父が『このままではダメだ』と言って独自の製法で干物を始めました。住居内の風通しのよい場所に魚を吊るして干していた縄文人の知恵に学び『縄文干し』と名付けて売り出すと、素朴な味わいが評価されてその年の『観光みやげ品コンクール』で県知事賞を受賞しました」

縄文干しはその後も「全国水産加工たべもの展」で水産庁長官賞をするなどして、さらに評価を高めていきます。

「ただ、賞をもらったからといって、すぐに商品が売れるほど甘くはありませんでした。商品が売れるようになったのは、物産展などに積極的に出ていくようになってからです」

「10年以上のブランク」は決して無駄ではなかった

縄文干しの誕生により、佐藤さんの人生にも大きなプラン変更がありました。

「私は高校を卒業したら働こうと思っていましたが、縄文干しが賞をもらった時に、父が『大学に行ってもいいぞ』と言いました。といってもそれが高校3年の冬のことだったので受験に間に合わず、横浜にある簿記の専門学校に進みました」

専門学校を卒業後、地元に戻った佐藤さんは、加工場で干物づくりを学びながら、自社製品の販売のため北海道から沖縄まで、全国各地の物産展を渡り歩いていました。1年の3分の1ほどは外に出ているという生活。出張に出たまま4か月ほど家に帰らなかったこともあるといいます。ギフトものも好評で全国から注文が入るほど商売は順調でしたが、2002年頃、佐藤さんは丸源水産食品を去ってしまいます。

「父と親子喧嘩をして家を出たんです。私は北海道に渡り、住宅のリフォーム会社でサラリーマンとして働き始めました。親子関係が悪くなったわけではなく、たまに帰省もしていましたが、私が抜けたことで販売を一人で担当することになった叔母は大変だったと思います。その頃は正月向けの伊達巻きも作っていましたが、短期間で何万本も納めないといけない大変な仕事なのでやめざるを得ませんでした。ただ、その頃から通販は順調に伸びていったようです」

しかし、そこで襲いかかってきたのが2011年の東日本大震災。丸源水産食品の工場建物にヒビが入ったほか、近くの中之作港にあった冷凍庫が津波により大規模半壊。地元の港では水揚げがなくなり、事業を休止せざるを得ませんでした。

「私は5月の連休に、震災後初めて帰省しました。札幌から福島への便は、チャーター機かと思うほどガラガラ。その時、父から『手が空いた時に心臓の手術を受ける』と告げられました。父は9月に手術しましたが、その年の暮れに亡くなりました」

震災から3年後の2014年、佐藤さんは北海道の会社を退職し、再び地元に戻ってきます。北海道での生活に馴染み、自分の家族も築いていましたが、一人暮らしの母親のことが気がかりでした。

「ずっと北海道にいてもいいと思っていましたが、妻からも戻ったほうがいいと言われ、一家でこちらに戻ってきました。子供にとっても、海に近いこの自然の中で育つほうがいいんじゃないかな、とも思いました」

いわきに戻ってしばらくは、酒屋さんで配達のアルバイトをしながら、再開の準備を進めました。そして2016年暮れに丸源水産食品の営業を再開。翌年、地元の魚市場で6年ぶりに入札が再開されると、干物作りを本格化させていきました。佐藤さんにとって10年以上のブランクがありましたが、北海道での仕事の経験が生かされているようです。

「もともと物産展を回るなどBtoCの経験は豊富でしたが、北海道ではそれまでほとんど未経験だったBtoBも経験できました。パソコンや営業のスキルも身につきましたし、当時の経験やスキルがあるおかげで、今こうして仕事ができていると思っています」

冷凍ショーケース導入で気軽にふらっと立ち寄れる販売所に

しかし震災後のビジネス環境は、かつて佐藤さんが全国を飛び回っていた時代とは大きく様変わりしました。とりわけ福島第一原発事故の風評被害の影響は大きく、通販部門の売り上げは低迷したまま。そこで佐藤さんは販路回復取組支援事業の助成金を活用し、工場に直接商品を買いに来る人向けに、冷凍ショーケースを導入しました。

「2018年11月から工場併設の販売所を開設し、冷凍ショーケースに商品を入れて直接販売するようにしました。地元の方が何かのついでにふらっと立ち寄ったり、都会暮らしの方が帰省ついでに足を運んでくださったりしています」

冷凍ショーケースにはメヒカリ、サバ、ヤナギガレイなどの干物が並ぶ
冷凍ショーケースにはメヒカリ、サバ、ヤナギガレイなどの干物が並ぶ

この日の取材中にも近所のお客さんが来店。地元の人は主に、その日のおかず用に単品で買っていくことが多いのだとか。スーパーにはあまり並ばない魚種の干物も多く、常連さんも戻り始めています。また、ギフト用の詰め合わせ商品も好調で、1万円前後の詰め合わせがよく出ていることもあって客単価も上がっているそうです。

助成金ではさらに、作業効率化のために製氷機も導入しました。

「今は魚が少ないので、人を雇うだけの仕事もありません。ただ、私と妻、母、叔母の4人しかいないため、非効率な仕事も多い。その一つが製氷です。これまで冷凍庫で氷を作っていましたが、水や氷の出し入れはすべて手作業で、その都度30分ほどかかっていました。製氷機を導入したおかげで作業が効率化し、その分、干物用の魚をさばく時間を多く取れるようになりました」

製氷機の導入により作業が効率化。冷凍庫内のスペースにも余裕が生まれた
製氷機の導入により作業が効率化。
冷凍庫内のスペースにも余裕が生まれた

「ちゃんと漬け込んで、ちゃんと干していれば間違いない」

試験操業で取れる魚が増えてきたとはいえ、風評被害はいまだ収まっていません。佐藤さんはこれから先の経営の見通しを次のように語ります。

「とりあえず、店は今の規模のままで続けていくつもりですが、縄文干しを『おいしい』と言ってくれる方も多いので、この味をもっと広めたいと思っています。この町には、津波で流されたままの状態となっている場所がまだあります。こういう地域に外から人が来て、少しでも町にプラスになることがあればいいですね」

家族のみの少人数経営のため、昔のように長く外に出ることはできませんが、2、3日程度であれば商談会や物産展にも積極的に参加していきたいといいます。

佐藤さんが父・勝彦さんと仕事をしていたのは家を出た2002年まで。事業の継承はどこまでおこなわれていたのでしょうか?

「父は職人なので、経営について何かを言うことはありませんでした。私が父から教えてもらったのは、魚のさばき方、漬け方、干し方。『ちゃんと漬け込んで、ちゃんと干していれば間違いない。ごまかすな』と言われました」

父の考案した縄文干しを受け継ぎ、広めようとする佐藤さんですが、佐藤さんが独自に改良したこともあります。それは化学調味料を使わずに、魚醤などで味を調整していくということ。つまり縄文干しを無添加で作るということです。

先代が考案した縄文干しを継承しながら現代のニーズに合わせ無添加に改良
先代が考案した縄文干しを継承しながら
現代のニーズに合わせ無添加に改良

「味の調整には時間がかかりましたが、無添加でいいものができたと思います。いい製品を作っていれば、お客さんはうちの商品を選んでくれるはずです。とにかく品質を落とさないように続けていきたいですね」

佐藤さんはこれからも、豊かな漁場のあるこの町で、食卓を豊かにする干物作りを続けていきます。

丸源水産食品

〒970-0311 福島県いわき市江名北口339
自社製品:縄文干し(サバ、メヒカリ、ヤナギガレイ、カマス、アカウオなど)ほか

※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。