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企業紹介第49回岩手県有限会社竹下水産

「魚をもっと食べやすく」 ―顧客目線で商品開発を進める

左手に三陸の海を見ながら、崖の上の国道45号線を南下。右にカーブして小さな漁港(茂師漁港)を見届けた後、今度は海を背に向けて内陸方面へと進んでいく。小成トンネルという小さなトンネルを抜けると、そこはもう「山の中」に違いないのですが、ここで「ある標識」が姿を現します。

『過去の津波浸水区間 ここまで』

津波の浸水区間を示す標識は三陸沿岸地域の至るところに設置されていますが、この標識はそれらの中でもとりわけ「津波のイメージが湧かない場所」にあると言えます。周りは山に囲まれ、そこからは海も見えない。東日本大震災の津波はこんなところまで来たのかと、改めてその大きさを思い知らされます。

岩手県下閉伊郡岩泉町の小成地区。竹下水産の工場は、その標識から200メートルほど先にあります。同社は2012年5月に、同じ下閉伊郡の田野畑村から移転してきました。震災前の工場は津波によって大規模半壊したため、津波が届かなかったこの場所に工場を建てたのです。

竹下水産社長の竹下幸治さんは、工場の目の前に海があった頃と今とでは、安心感がまるで違うと言います。

竹下幸治さん。自ら運転する4トントラックで三陸各地の魚市場を回る
 竹下幸治さん。自ら運転する4トントラックで三陸各地の魚市場を回る

「山は不便だけど、安心。安心は銭では買えません。以前工場があった田野畑村には20メートル近い大津波が来て、村の防潮堤も破壊されました。他の被災地の津波も映像で見ましたが、私たちが目にしたのはそれよりも激しい津波で、その威力は頑丈なH鋼の鉄骨を弓形にうねらせるほどでした。かさ上げ工事で地盤を少し高くした程度では、同じような津波にはとても勝てない。こればかりは『逃げるが勝ち』ですよ」(竹下幸治さん、以下「」内同)

竹下さんが決断した「撤退」は、決して後ろ向きな理由ではなく、一日も早く復興を遂げるため、そして長く安心して仕事を続けるためでした。

この場所を見つけるまでに、竹下さんは他の候補地をいくつも歩いて回ったのだそうです。資金調達にも苦労しました。震災後、国や自治体からの補助金を活用して新しい工場を建設した水産加工業者が多かった中、竹下さんのケースでは震災前と同じ場所に工場を建てなければ補助の対象にならなかったため、借り入れに頼るしかありませんでした。

新工場の建設費は総額1.5億円。工場を再開するまでの1年余りの間、「貯めていたお金を今使わないでどうする」と従業員に給料を払い続けていた竹下さんにとって、それはとてつもなく大きな金額でした。売り上げがない中、ローンと給料を二重で支払い続けるという日々。あえてそんな厳しい道を選んでまで「安心」を買ったのは、小さい頃から津波の恐ろしさを嫌というほど聞かされていたからです。

「私が生まれる11年前の昭和8年(1933年)、昭和三陸地震という大きな地震がありました。この時、田野畑村で個人商店を営んでいた私の祖母は、心配になって店に戻ってしまった。その間に津波にのまれて亡くなってしまったんです。私は小さい頃、両親からその話をよく聞かされていたので、津波が来たら逃げることを最優先にしなければいけないと思ってました。地震があった直後、若い従業員からは、『社長、ここまでは津波も来ませんよ。今トンネルフリーザーを動かしているから、逃げたら作っている製品が台無しになる。このまま仕事を続けましょうよ』と言われましたが、『今日は俺は逃げる!』と言って全員を避難させました」

当時工場には25人以上の従業員がいましたが、トラックで避難するなどして全員無事でした。高い場所に避難してから津波が来るまでの間、竹下さんの気にかかったものの一つが、工場に納品されたばかりの新しいフォークリフト。取りに行こうと思えば、行ける。しかし何度も聞かされた祖母の話の記憶が、竹下さんを思いとどまらせました。

震災後でもビジネスの世界は待ってくれない

大手缶詰メーカーで米アラスカから原料を買い付ける仕事などをしていた竹下さんは、1988年に竹下水産を立ち上げました。当初はフィーレ加工のみを行っていましたが、激しい競争の中で生き残っていくため、2年目からはフライ事業も開始。三陸の港に揚がるサケ、イカ、サンマ、イワシ、サバ、イカといった魚をカットして、フライや唐揚げ、竜田揚げ用に加工する仕事が、現在も事業の柱となっています。

しかし同社を取り巻く環境は、震災前と震災後で大きく様変わりしました。新工場が建つまでの1年2カ月の間、竹下水産の再開を待ち続けてくれた人たちもいましたが、取引先は待ってくれませんでした。取引先の多くは、すでに新しい仕入先を確保していたのです。

フライ製品に多くの人員を割いている
 フライ製品に多くの人員を割いている

「そんな苦しい時に、ある大手食品メーカーが手を差し伸べてくれた。うちは震災で多くの販路を失いましたが、このメーカーからいただいた仕事がきっかけとなり、販路が少しずつ回復していきました」

とはいえ、いつまでも支援が続くわけではありませんでした。しばらくすると、被災企業である竹下水産も、元の競争の世界で勝負しなくてはなりませんでした。津波からは「逃げるが勝ち」を決めた竹下さんは、その競争には真っ向勝負で立ち向かいました。

「競争した結果、私たちは勝ちました。お客さまの支持を得られたからです。製品をちゃんと作ることがいかに大事か、ということでしょうね」

「すごい機械」がやってきた

復興への道が拓けつつある竹下水産も、他の被災企業と同様に、人手不足などの課題を抱えています。そこで同社は水産加工業販路回復取組支援事業の助成金を活用し、フィーレマシンと採肉機を導入しました。

「コイツは本当に大助かり。すごい機械だよ」

竹下さんが絶賛する2つの機械。フィーレマシンは、魚を並べるだけでカットしてくれる機械。この機械の導入により、これまで12人で行っていたカット作業が3人で済むようになり、他の作業に人員を回せるようになりました。採肉機は、骨と皮を除いて身の部分だけを取り出す機械。これにより、骨がなく食べやすい、新しい製品を作ることができるといいます。

魚を並べるだけイワシを三枚おろしにするフィーレマシン
 魚を並べるだけイワシを三枚おろしにするフィーレマシン
ミンチにすると同時に骨と皮の除去も行う採肉機
 ミンチにすると同時に骨と皮の除去も行う採肉機

この日はフィーレマシンでイワシを三枚おろしにしたあと、採肉機にかけて骨も皮もないミンチを作っていました。100キロ分のイワシがミンチになるのはあっという間。この採肉機では、イワシを1トン処理するのに、機材の準備を含めて1時間もかからないのだそうです。

それは「俺の考えじゃない」けれど、顧客目線

「近頃は口当たりがソフトで食べやすいものがウケるんです。まだ具体的に何を作るかは言えませんが、そのような食感で『普通の魚の味』がする製品を作ろうと考えています。子供も老人も、もっと魚が食べやすくなる商品を出していきたい」

そんな展望を語る竹下さんですが、「それは俺の考えじゃない」と笑顔で言ってのけます。販路の縮小に頭を悩ませていた竹下さんは、独自にアンケートを実施し、「今どういったものが食べたいか」といったことを一人ひとりから聞き出して、その答えにたどり着いたのです。自分の思いつきではなく、人の声に耳を傾けることを優先したのには理由があります。

「うちは小さい企業ですが、潰れるわけにはいかない。アンケートはいわば、潰れないための『市場調査』ですよ。バイヤーさんの意見も大事だけど、食べるお客さんの意見も大事。両方とも欠けてはならないけれど、意識していないとつい忘れてしてしまうのがお客さん目線です。試作品を食べてもらって感想を聞いたり、『どういうのが欲しいの?』と直接聞いてみみたり。そういったことをしていました」

何を作れば喜ばれるかという基本に戻ってアンケートを実施した時に多かったのが、「骨のないものが食べたい」という声。

「骨のない魚なんて、『そんなバカな』と思う人もいるでしょうね。でもこの機械で実現できる。これから楽しみですよ」

最寄りの岩泉小本駅には、1時間か2時間に一本しか電車がありません。「ここには人が来ない」と嘆く竹下さんですが、新しい“相棒”がやってきたことにはとても満足している様子。お客さまの理想を叶えることで、竹下さんの夢も、この場所から再び大きく膨らんでいきます。

有限会社竹下水産

有限会社竹下水産

〒027-0421 岩手県下閉伊郡岩泉町小本字小成130-1
自社製品:フライ、唐揚げ、竜田揚げ製品ほか

※インタビューの内容および取材対象者の所属・役職等は記事公開当時のものです。